四

 リボーンが綱吉の前に現れて、不躾なまでに空恐ろしいことを淡々と告げてきた時、綱吉は家畜小屋の掃除をしていた。
 本当は今朝起きた時、家鶏が生んだ卵の回収と共にすることであるが物の見事に忘れていたのである。だから水田の雑草と害虫処理を適当なところで切り上げて、母屋の傍に建つ家畜小屋へと向かったのだ。
 家畜小屋はその匂いを嗅ぎ慣れぬ者が近づけば、吐き気を訴えるほどの異臭を放っている。けれどそんな中でもリボーンは平然とした様子で、顔を顰めもせず円らな黒塗りの瞳でさらりととんでもない事を綱吉に告げてきた。
「夕餉の後、ヒバリのとこに行くぞ。ママンに上手い言い訳を考えとけ」
 綱吉が絶句して硬直したのは言うまでもない。
 結局、奈々には今晩も自主的に「畑荒らしの見張り」をするのだと言って出てきた。嘘を吐くのは心苦しいが、実際「並盛山に出掛けてくる」なんてことは口が裂けても言えないのが事実である。夕餉の後であるのは、リボーンなりに今の忙しい時期を察してのことだろう。
 そして夕餉を食べ終え、綱吉が家を出た時はまだ日の光が西空を照らしていたというのに、今や濃厚な闇の気配が空気に纏わりつく。あと一刻も経たずして、辺りは暗闇に包まれることだろう。
 綱吉は家を出る時に持ち出した提灯の明かりと、朧気に光る月だけを頼りに凹凸の激しい山道を登っていく。睡眠不足に朝からの重労働も手伝って、綱吉の体力は限界に近い。
 盛り上がった木の根に足を捕られること数回、ようやく視界の先に人口的な明かりを見つけ、ホッと息をついた。けれど逆にぼんやりと光る灯火を目にするなり、鈍くではあったが確実に前へと進んでいた綱吉の足がピクリとも動かなくなる。
 鬼の里を訪れるのは二回目であるが、日中に訪れた三ヶ月前と違い、今は日も暮れた時間帯だ。何かが違うというわけではない。ただ暗闇が綱吉の恐怖心を嫌でも煽るのだ。今すぐにでも踵を返して山を下りたい気持ちに駆られるのを、何とか堪え忍ぶ。
「ツナ」
 すると立ち止まったままの綱吉にリボーンが小さく呼びかけてきた。
 何だ、とその小さな童子の姿を振り返る。早く行けと諫められるのだろうなと思っていた綱吉の顔は、自然と顰められていた。けれど続いて言われた言葉に目を見張る。
「鬼を怖がるな」
 ぽかん、と馬鹿みたいに口を半開きにした綱吉を、しかしリボーンはどこまでも真摯に見上げた。
「お前と鬼は対等だ。それを忘れるなよ」
 けれどリボーンの言わんとすることが理解できずに、綱吉は眉をひそめた。
 鬼と対等であるのは、リボーンだ。綱吉じゃない。事実リボーンが三ヶ月前に、綱吉が鬼に対して全くの役立たずであることを教えてくれたのではなかったか。
 しかし意味が分からずとも、普段と変わらぬその太々しい口調にこそ綱吉は安堵した。計り知れない強さを持つリボーンがいるからこそ、今すぐにでも踵を返したい足を何とか押し留めていられる。
 綱吉は冷や汗でじわりと濡れた手の平をぎゅっと握りしめ、リボーンに応えるように頷いた。鉛のように重い足を引き上げる。
 そうして数メートルの距離を縮めたところで、綱吉たちの視線の先で目指す光源がゆらりと揺れた。
 その灯りの下で、鬼の里を守る砦柵の前を陣取るようにして仁王立ちしている男がいる。その男の額にはしっかりと鬼である証の角が生えていた。綱吉はそれを確認するなり、さっと視線を外す。あまり見ていたいと思うものではない。唯でさえ、男の顔は強面なのだ。
「止まれ」
 短く命じられた言葉に、綱吉もリボーンも素直に受け入れて立ち止まる。
 上背のあるその男は、遠慮を知らない視線で綱吉をじろりと睨め付けてきた。そしてその視線がリボーンへと移り、やわらかみのないその表情に小さな変化がおきる。
「沢田の者か?」
 恐らく、雲雀からリボーンについての話があったのだろう。
 男の視線はリボーンへと向けられていたが、綱吉は鬼から思いもよらず姓を当てられて小さく肩を飛び上がらせた。それから、しっかりと首を縦に振る。
「え、あ、はい」
「……今宵の鬼頭は気分を害しておられる。明日にもう一度参られよ」
 どことなく苦渋を滲ませた表情でそんな事を告げてくる男に、綱吉の心が揺らぐ。脳裏に浮かぶのは、三ヶ月前の鬼の姿。あの鬼の機嫌が悪いのだと、今綱吉の目の前で通せん坊をしているこの男が言う。
 帰りたい。
 綱吉は咄嗟に浮かび上がった言葉を胸に、そろりと僅かな期待を乗せてリボーンを見据えた。無論、この童子に係れば綱吉の淡い期待など物の見事にぶち壊してくれる。
 リボーンは暗に、今は引き返した方がいいと助言してくれた鬼の言葉に露ほどにも心を動かせることなく、有無を言わせぬ声音で切り返した。
「悪いが、こちらも仕事だ。取り次いでくれ」


 そしてその部屋に足を踏み入れた瞬間、綱吉は不自然に身体を強張らせた。ぴりぴりと肌を刺すような空気に、全身の産毛が逆立つ。そして同じく座敷に入ったリボーンがその部屋の主を見据えるなり、口を僅かに上げ皮肉った。
「確かに、機嫌は最悪そうだな」
 それから呆然と立ちつくす綱吉を見上げ、睨み付ける。
 恐らくしっかり気を持て、呑まれるなと忠告を意味していたのだろう。けれど、今度ばかりはリボーンが付いていてくれても駄目だった。
 足が、持ち上がらない。意図せずに身体が震えてくる。
(――怖い――)
 日も暮れ、暗闇に紛れたはずの漆黒の瞳が異彩を放って綱吉、リボーンへと目移りする。
「何の用…?」
 苛立ったような雲雀の声。大気中の空気が震えたようだった。
 障子を開け放した窓辺の近くに腰を下ろしている雲雀は、涼やかな夜風に髪を弄られながら短く問う。綱吉はその言葉を、息を呑んで聞いた。
 雲雀は、確かに誰がどう見ても機嫌が悪く見える。
 恐らく――怒り。なにに対してなのかはわからない。それでも、全身が危険を察知するほど、今の雲雀は綱吉にとって脅威だった。
 三ヶ月前の比ではない。
 あの時、きっと雲雀は機嫌が良かった。それは女を食べる気でいた為に、そしてリボーンという強い好敵手を見つけた為に。
 しかし今のこの男は、何の躊躇いもなく綱吉を殺してしまうだろう。
 殺して、平気な顔でその死体を見下ろすだろう。
 それがはっきりとわかる。情の欠片もなく、後悔すらしない。
 日中に黒川花と話した会話を脳裏に思い浮かべ、何て馬鹿なことを考えたのだろうと自分の浅慮の無さに自嘲する。鬼――なのだ、この男は。家畜をいくら食そうと心に何か留めるものなど有りはしないのだろう。
 綱吉は座敷に一歩踏み入れた状態のまま顔を青ざめて立ちつくす。その様子をリボーンが見上げ、小さく溜息を吐いた。そうして元凶である男に対して、気後れした様子もなく声を掛ける。
「来た早々に悪いが、こいつの席を外すぞ」
 リボーンの言葉を合図に円らな瞳とかち合っていた氷のような鋭い眼光が、綱吉へと向けられた。
 その冷ややかな視線に射竦められ、綱吉は大仰に身体を振るわせてしまう。額に浮き出る汗を拭うこともできず、身体を恐怖に強張らせる。できるものなら、今すぐにでも立ち去りたい。けれど黒曜石を思わせる切れ長の瞳に吸い付けられるようにして、綱吉からはその視線を外すことができなかった。
 そんな綱吉の硬直を見抜いたように、雲雀の口端が皮肉に上がる。けれどその笑みも直ぐに消え、興味を無くしたかのようにその氷のような眼差しが綱吉から逸れた。まるで呪縛が解かれた如く、綱吉の身体から力が抜ける。
 リボーンは雲雀の沈黙を了承と取ったらしい。棒のように立ち尽くす綱吉の足を叩いて注意を寄せ、小さな顎で退席を命じる。
 その際に綱吉の表情を仰いだリボーンは小さく舌を打った。
「駄目なら帰れよ」
 鉛のように重い足を引きずって歩く綱吉は、背後から聞こえた小さな童子の声に苦く唇を噛み締めた。
 抑揚のない声音に落胆の色を感じとらずにはいられない。鬼を怖がるなと言ったリボーンに、綱吉は何も返せずに終わる。強くなると決めた日からの凡そ三ヶ月間を思うと、ひたすら自分が惨めに思えて仕方なかった。
 後ろ手に緊張と汗ばんだ指先で世辞にも滑らかとは言えない動作で襖を閉め、綱吉は中に童子と鬼を残して座敷から出た。
 気が塞ぎ込みそうになりながらも襖を隔てた今、微かな安堵を得てホッと息を吐く。だが直ぐ側で小さな物音を聴覚が拾い、綱吉がびくりと再度身体に力を入れた。
 綱吉が俯き加減だった頭を上げてみると、そこには十徳姿の鬼がいた。
 恐らくいつ主人に呼ばれても平気なように近くで控えていたのだろう。そして綱吉が立てた音に様子を窺いに来たのだ。
 鬼は強面の表情のまま、顔面を蒼白させる綱吉を見下ろした。
「……お帰りですか?」
 野太い声に尋ねられ、綱吉は色の失った顔でコクリと頷く。
 鬼は綱吉の隣に童子の姿がないことに気付き、ちらりと襖の奥を見据えるようにして視線を走らせてから、もう一度綱吉へと視線を戻した。
「……お一人で?」
「は、はい」
「左様ですか。それでしたら、私が麓までお送り致します」
 この時、綱吉は咄嗟にその申し出を断ろうとした。
 俯いていた顔を上げ、けれど初めて十徳姿の鬼の顔を見据えてから何故か綱吉はその口を噤む。暫し沈黙し、承諾を表して首を縦に振った。
「お願い、します」
 渋々ではない。綱吉自身、不可解なものを見るような不躾な視線を投げながら自分が口にした言葉に驚いた。
 目の前にいる男は紛れもなく鬼で、鬼が危険な存在であることはつい先刻に思い知ったばかりだというのに。日が暮れた今、一人で帰ることも十分に危険であるが鬼と二人きりで帰ること以上に危険なことがあるだろうか。
 普段の綱吉ならば、正気の沙汰ではないと思う。しかし綱吉に備わる防衛本能は雲雀に対して惜しみなく警報を鳴らしていた時に比べて、今は壊れてしまったのではないかと不安になる程に大人しかった。
「では、こちらへ」
 鬼の促しの言葉に綱吉は自分の感情に戸惑いながらも、見知った誰よりも上背のある背中を追うようにして歩いた。
 来た道を引き返し、綱吉は鬼が用意してくれた提灯の明かりを頼りに外へと出る。本当は綱吉が来る時に持ってきた提灯を使おうと思ったのだが、ふとリボーンの存在を思い出して鬼の好意に甘えることにしたのだ。
 外に出てから、綱吉は身体を微かに震わせた。背筋に悪寒が走る。気味の悪いものが身体に纏まり付くようで、綱吉は身体を抱くようにして腕を自らに回して掻き込んだ。
 その綱吉の様子を見下ろした鬼が、濃紺の闇に呑まれた辺り一面へと視線を見回す。それから力強い眉をひそめた。
「急ぎましょう。できるだけ私から離れないようにお願いします」
「……はい」
 鬼が意味する言葉を正確に知ることはできずにいたが、綱吉は問い返すこともせずに鬼の言葉に頷いた。
 そして綱吉はすぐ前を先導する鬼の提灯だけの明かりを頼りに、鬼の集落を後にして山を下っている。行きの時は謎の強さを持つリボーンがいたからこそ気にせずにいた事柄が、今更になって綱吉を襲う。
 夜風に吹かれて奏でる葉音は昼間より大きく反響して綱吉の耳に届き、恐怖で研ぎ澄まされた感覚が周りに溢れる動物の気配を濃厚に伝えた。夜空には月の朧気な光と星々の小さな明かりが点在していることだろう。けれど天に伸びる樹木の木々に遮られて綱吉にはその明かりを目にすることは適わなかった。
 灯りは鬼の持つ提灯のみで、歩き慣れぬ山では心許ない。綱吉は木の根に足を捕られ、転びそうになったところを目の前に立つ鬼によって支えられることが何度か続いた。
 そして今も丁度そんな時であった。
 背後の微妙な振動を感じとった鬼が半身を捻り、その大きな手で綱吉の細腕を掴み上げる。優しい助け方ではないが、綱吉は総計六回も鬼によって地面との接吻を避けたことになった。
「あ、ありがとうございます…」
「よくよく転ぶ御仁だな」
 頭を下げる綱吉の真上からどこか感心した鬼の太い声が聞こえ、綱吉はより恐縮する。
「もしや鼻緒が緩くなっておられるのでは? よろしければ拝見させて頂いても構いませんか」
 ひたすら縮こまっていた綱吉は、その鬼の言葉にぎょっと肩を怒らせた。
 綱吉の運動神経が鈍いのは周囲の知るところであったが、流石に数回しか顔を合わせたことしかない鬼がそんなことを知るはずもない。しかし素直に真実を告げるのも極まり悪く、綱吉は千切れんばかりに首を左右に振った。
「け、け結構です! 大丈夫ですからっ」
「……そうですか。もし心配のようでしたら気兼ねなく声を掛けてください」
「はっはい。どうもすみません」
 綱吉の過剰な反応をその男は自分が鬼であるから、と取ったらしい。しつこく言葉を重ねる事をせずに、また提灯の灯りのみを頼りに歩き出した。さり気なく背後に気を配って歩いているのだが、その後を追って歩く綱吉にはまだそれを察する能力は無い。
 けれど綱吉もまた、ずっと付き纏う違和感の正体に頭を捻らせていた。先を歩く鬼の背には巨漢による威圧感はありしも、鬼特有ともいえる不気味さや嫌な感じがしないのである。かといって綱吉はしっかりと先を行く鬼の額に生えた鬼の証を見ていた。
「あの」
 ふと、気付けば声を掛けていた。
 だが無意識の内に行われた行為に綱吉自身が慌て、何を尋ねようとしたのかさえ分からない。そのような状態で咄嗟に衝いて出た言葉は何てことのない質問だった。
「名前、を尋ねても?」
 顔だけを振り返って綱吉を見た鬼は、その言葉を聞いて面食らったように強面の顔に驚愕してみせた。だけど直ぐに綱吉から視線を外し、その表情を隠してしまう。
「草壁哲矢と申します」
「草壁、さん……ですか。あっ、俺はさわ」
「既に存じております」
「そ、そうですよね。すみません」
 最後まで言わせてもらえずに遮られて、綱吉は尻込みする。
 そして綱吉の空笑いが夜の空気に溶け込むと、辺りはどこかで鳴く獣の遠吠えや夜を支配する者達のみの音が綱吉の怖気を否応にも誘った。先程まではひたすら恐怖に耐えていた綱吉であるが、一度人との会話の蜜を味わうとそれに耐えるのも一苦労である。
「あの、もう一つ尋ねても構いませんか?」
 結局は耐えきれずに綱吉は目前の背に向かって口を切った。
「もしかしたら草壁さんにとってはすごく不快なことなのかもしれないんですけど、というかきっと失礼極まりないこと何です。でも今日リボーンが鬼の里を訪ねたのはきっとこの事なんじゃないかなーって思いまして。ああ、そりゃあリボーンが既に雲雀さんから聞いているだろうから、俺なんかがわざわざ草壁さんから聞くこともないのかもしれないんですけど、でも……」
「何を知りたいのですか」
 ハッキリとした態度が取れずに、堰を切ったように淀みなく言い訳を連ねる綱吉とは逆に草壁は判然とした態度で要点を問うた。
「深浦村でその、鬼の死体が見つかったって聞いて……」
「事実かどうか確かめたいという事ですか」
「……はい」
 柔らかみの無い声音に綱吉は尻込みしながらも小さく肯定する。
 ちらりと目先を歩く広い背中を仰ぐも、そこから草壁の気持ちを推し量ることはできなかった。思えば雲雀の屋敷の中で会った時から草壁の態度は強面の顔に似合わず物柔らかで、別の物言いをすれば感情の波が乏しかった。
 不思議な鬼だと思う反面で、何を考えているのか分からない。けれど胸中を量りかねる知り合いならばごく身近に居るため、綱吉はそれほど気にしなかった。
「草壁さんは何か知っていますか?」
 足下に注意を払いつつ、その広い背中に問う。
「事実である事は存じています。私は実際に見ていませんが、鬼頭が昨日の明け方には確認されたようですから」
「雲雀さんが…?」
 脳裏にひどく何かに苛立った鬼の姿を浮かべ、綱吉は無意識化にブルリと身体を震わせた。だがその綱吉の様子を知らずにいる草壁は淡々と肯定する。
「何でも全身が焼け爛れていたとか。鬼角が取れていたら恐らく判別できない程であったと拝聴しております」
 感情の起伏を感じられない声音で告げられた言葉に綱吉は絶句した。背筋に走った悪寒はすぐには退かず、凝りとなって残る。
 しかし自ら凄惨な仲間の死を確認したという草壁の言葉に、綱吉は顔色を曇らせた。
「じゃあ、それで雲雀さんはあんなに怒っていたのかも」
 鬼たちの仲間意識がどれだけのものか知る由もないが、雲雀の怒りの理由としては十分である。
 けれどその独り言を聞き留めた草壁は、「そうでしょうか」と綱吉の思案を否んできた。綱吉は驚いて広い背中を凝視した。その視線を背中越しに感じたのかは定かではないが、草壁は己の見解をつらつらと口に仕始める。
「そもそも私達は死体で見つかったというその鬼を探していたのです。秩序を乱した存在として始末する為に」
「始末?」
 穏やかならぬ言葉に綱吉は息を呑む。草壁は低い木の枝に対して腰を屈めてやり過ごしながら「そうです」と何食わぬ声音で肯定した。
「沢田殿がご存じであるか私は存じ上げませんが、私たち鬼にとって鬼頭の存在は絶対です。恐怖による支配とも言えるでしょうが、普段は鬼頭の圧倒的な強さが私たちを縛り、また守っておられる。けれど極偶に、鬼頭の命に背く者が現れるのです。その尤もたる理由が糧食の規制ですが」
 草壁の淀みない言葉を聞いていた綱吉は、最後の言葉に我知らず短く息を吐き出した。その微かな音を拾ったかのように、草壁は道先を照らしながらコックリと首を縦に頷く。
「死体は村の入り口付近にて見つかったそうです。恐らく、今回も理由は同じと見て構わないでしょう」
「………」
「規律を破った者は鬼頭によって始末される。これもまた決まりなのです」
 綱吉は淡々と告げられる草壁の言葉を、何とも形容し難い表情で聞いた。
 鬼の魔の手が隣村に伸びかけていたという事実を思うと竦み上がる思いであるが、それを阻止しようとしていたのが雲雀だと思うと違和感がある。
 背後を振り返ることのない草壁はそんな綱吉の様子など知る由もない。しかし淡々としていた口調が乱れ、自身の内心に訝しんでいるようだった。どこか憮然とした口調となる。
「始末する獲物が先に狩られれば鬼頭の性格上、確かにご立腹されるかもしれませぬが……本来そのような些細な事を引き摺るような御方ではありません」
「そう、なんですか?」
「はい。一度鬱憤を晴らされると大抵の事は気に留めなくなりますので」
 それもどうだろうかと思ったが、敢えて口には出さなかった。
 草壁は続いて「それに」と零したところで言葉を塞き止め、綱吉は不思議に首を傾げた。どうかしたのかと問い掛ける。すると大きな背の上に乗った頭が不意に擡げた。
「いえ、鬼頭は例年この時期になりますと少なからず気分を害しておられるのです。今年もそれかと思ったのですが、どうもそれだけではないような気がしまして」
「毎年?」
 気候のせいだろうかと思い巡らす。あと一月もすれば並盛の里にも梅雨が訪れるのだ。農作業には欠かせぬ存在ではあるが、綱吉も梅雨はあまり好きではない。
 綱吉の問い掛けに草壁は珍しく難渋したようだった。暫しの沈黙が続き、草壁はすぐ後ろを歩く綱吉にようやく聞こえる程に小さな溜息をつく。それを合図に、草壁が閉じた口を切った。
「昔、何かと鬼頭に構う一風変わった鬼がおられたのです」
「はあ」
「その鬼の命日がそろそろ何ですよ」
「………」
 それ以上は口にせず黙ってしまった広い背を眺めながら、綱吉は今一理解しきれない会話に首を捻った。どうしてそれで雲雀が毎年苛立つことになるのか分からない。
 綱吉は更に話を聞こうと口を開きかけ、だが唐突に動きを止めた背に驚いて尋ねようとした言葉を内心に押し留めた。
「どうかしたんですか?」
 今まで綱吉が転びそうになった時ぐらいしか立ち止まる事がなかった背が、今はまるで壁の様にして行く手を遮っている。その草壁の様子に不安を隠しきれず、綱吉はがっしりとした広い背中を凝視した。
「草壁さ」
「あれは……」
 呼びかけた声には反応せず、しかし沈黙していた草壁から小さな声が零れる。
 そして草壁は提灯を持った手を高く掲げ、遠く濃紺の闇が広がる先をぼんやりとした灯りで照らした。綱吉も草壁の横から顔を出し、彼の視線を追うようにして視界前方に目を凝らす。
 しかし綱吉が何かを見つけるより早く、草壁が動く方が早かった。先程まで進んでいた道から少し外れて、草壁は背を伸ばした草を踏み付けて行きながら大股に進んでいく。その後を小走りで付いていき、綱吉はようやっと草壁が見つけたものを目にした。
 目を大きく見開き、ぽかんと口を開けながらそれを見つめる。
「この人は…?」
 老木にもたれるようにして倒れている人間の異色な存在に、呆気をとられた。
 御山に人が入っていることも十分に驚きであるが、それよりも草壁の持つ提灯の明かりで照らされたその人間の髪色に。
「……すごい」
 綺麗、と気恥ずかしく思うよりも先に言葉が衝いて出た。


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