三

 結局その日、畑荒らしは現れなかった。
 夜が明ける少し前にようやく家へと帰れた綱吉は、そのまま一目散に自分の布団へとくるまった。羊を数える暇もなく泥のような眠りについた綱吉はけれど、起こすつもりなのか殺すつもりなのか、真意を問い質したくなるようなやり方でリボーンに明け方には起こされた。
 圧倒的に足りない睡眠不足のせいで綱吉は何度も船を漕ぎ、その度に頭を柱に打ち付けながら冷えた床の上を歩いていく。そうして何度か頭を打ち付けた後、綱吉はふらふらとした足取りでやっと囲炉裏の側まで腰を落ち着けた。
 既にリボーンは囲炉裏を囲うようにして、定位置と化した場所に居座っている。そして先刻に綱吉にした振る舞いなど無かったかのように、飄々と綱吉を見上げ「遅かったな」とぬけぬけと告げてきた。本来ならば一言くらい物申したかもしれないが、何分、今は眠気が祟って禄に頭も回らない状態である。
 重い瞼のせいで半分も開かない目のまま、綱吉が爆ぜる火の上で吊された鍋の中を意図もなく眺めていると、土間から奈々が上がってかかざの席に着いた。
 欠伸交じりに朝の挨拶を返す綱吉に、奈々は麦の多く入ったご飯を手渡してから新しいお椀に鍋の中で煮立った野菜汁を盛りつける。それを綱吉、リボーンへと用意してから最後に彼女の分を盛り、三人は揃って朝餉に有り付いた。
「そういえばツっ君、昨夜は畑荒らしさんって現れたの?」
 綱吉が野菜汁を口に含んだところで、奈々が当然といえば当然の質問を投げて寄越す。だけど口に出す元気もない綱吉は、汁椀に口をつけたまま首を横に振るだけで答えた。
 それを見た奈々は不思議そうに小首を傾げる。
「変ねぇ、ここのところ毎日来ていたのに。どうしちゃったのかしら」
「さあ。警戒して出てこなかったんじゃないかな…」
 口の中に野菜を掻き込みながら、綱吉は昨晩のことを苦い顔で脳裏に思い浮かべた。
 当然ながら、畑荒らしに備えたのは綱吉達だけではない。村の大人達による夜の見張りが行われたのだ。綱吉たちはその見張りに見つかり、強制的に家へと帰されるところを了平が強く拒んだのである。そしてあろう事かその見張りに殴りかかってしまい、事はあれよあれよと大きくなってしまった。
 畑荒らしが動物にしろ人にしろ、あれだけの騒ぎの中に入って来られたとは思えない。それだけ昨夜は騒がしかった。
 今頃了平などは大人達からお咎めを受けているかもしれない。昨夜は大暴れする了平を大人達が確保して、綱吉と京子とハルはひとまず家へと帰るように命じられたのだ。
 了平一人に責め苦を味あわせることに綱吉の良心がほんの少し痛みながら、しかしそれ以上に昨夜から気になっていたことを奈々に尋ねる。口元に寄せていた汁椀を下ろしてから、それより、と言葉を切り出した。
「深浦村の噂について、何か知らない?」
「噂?」
「うん…。昨日さ、黒川がちょっと教えてくれたんだけど……」
 言葉を濁しながらぼそぼそと話す綱吉を、奈々は不思議そうに見つめた。
「どんな噂なの?」
「いや、知らないならいいよ。うん」
 内容が内容だけに綱吉は告げることを戸惑い、結局この話を中断させた。昨日の夕刻、黒川花が綱吉たちにもたらした内容はそれほどのものである。
 並盛の里に住む者の中で『鬼』の存在を知らぬ者はいない。並盛の里には古くから突然消えてしまう人間が、一定の間隔で現れるからだ。里の人間はそれを並盛山に住まう鬼によるものだと考え、神隠しを捩って<鬼隠し>と呼んでいる。けれど、実際にその所業が鬼によるものだと知っている者は少ないのだ。並盛の里に住む各村里の村長と沢田家当主、それぐらいだとリボーンは綱吉に話した。
 並盛の里に住む殆どの者にとって、『鬼』は『恐怖』の象徴であるが、それ以上でもそれ以下でもないのである。例えば日常会話に鬼の名が出てくるなど、まず有り得ない。<鬼隠し>にしたって、本当に古くから昔から当たり前のように繰り返されていたから、事が大きく騒がれることもなかった。
 鬼の姿をまともに見た者がいないから、里の中心に聳え立つ並盛山に鬼がいると知っていても綱吉たちは平然と並盛で暮らしていける。事実およそ三ヶ月前までは綱吉自身『鬼』というその言葉に怯えつつも、実際に鬼と相見えることは無かった。それでも架空の存在として捉えるにはその存在は大きすぎて、だからこそ『鬼』は並盛の里の者にとって『恐怖』そのものなのだ。
(その鬼が、隣村で見つかっただなんて……しかも死体で)
 もしそれが本当ならば、大変なことじゃないのかと綱吉の中で不安が渦巻く。具体的に何が大変であるのかよく分かっていないが、とんでも無いことのように綱吉には思えて仕方なかった。
 そして次に自然と浮かんでくるのは、強烈な印象を残した鋭い眼光をした恐ろしい鬼の姿。鬼頭である、雲雀恭弥。
(――いや、ないない。ありえない)
 だが浮かびあがっては、すぐに打ち消した。またしても何に対して「ありえない」のかよく分からないながら、綱吉は軽く首を左右に振って気を取り直す。
 飯椀に盛られた麦飯を口の中に放り込むようにして箸を動かし、数回咀嚼を繰り返して嚥下する行為を何度か続けた。そして全ての麦飯を平らげた後に、今度は残り少ない野菜汁を腹の中へと一気に流し込む。
 ごくごく、と喉元を鳴らしながら飲み上げると、綱吉はお椀を持つ手を下ろした。それを見定めたタイミングで、奈々は綱吉にお茶の注がれた湯飲みを手渡す。
 受け取った湯飲みの中で、薄い緑色をしたお茶が揺れる。一気に飲み干そうとして、けれど途中で止めて湯飲みを下ろした。そしてジ、と揺れるお茶を見つめる。
(そうか、鬼も……死ぬんだ…)
 ふと、何ともいい難い感情が綱吉の胸に落ちた。
 その綱吉の様子を、傍らに座るリボーンがちらりと一瞥していた。


 朝餉を終えた綱吉はそのまま眠りにつくことも許されず、今ではすっかり水の入った田の中でひたすら雑草取りを続けていた。幾本もの数を抜いても減った気がしない雑草と害虫を相手に、綱吉の気力の限界は近い。大体にして、体勢が悪い。水田では地面に座り込むこともできず、またせっかく植えた稲を踏み潰すわけにもいかず、綱吉は細心の注意を払って中腰で作業を続けているのだ。睡眠不足も相俟って、腰も神経も随分とすり減っている。
 綱吉は痛む腰をさすりながら、ふぅと息を吐き出して身体を起こした。そして何とか泥の跳ねていない二の腕で額に浮かぶ汗を拭う。
 それから足を取る水田に体勢を崩されないように一歩一歩慎重に歩を進め、綱吉は田地の傍に伸びる細道の上へと、足は用水に浸からせてから腰を下ろした。たくしあげた袖は作業の邪魔にならないようにと、身体に通した紐で縛り上げている。その不格好に縛られた紐を解こうとして、止める。先程まで水田に手を入れ、雑草を抜き取っていた手はまだ泥に塗れていたからだ。
 綱吉は、そのまま細道の上へと身体を倒した。
 雲の薄い晴天を視界いっぱいに入れて、息を吸い込んでから瞳を閉じる。燦々と降り注ぐ日の光は暖かく、鼻腔をくすぐる穏やかな風が綱吉の疲れた身体を癒していく。
 やがて睡魔に襲われ始めた綱吉の耳に小さく足音が聞こえた。思わずこの場にはいない童子の足音かと思った綱吉は、反射的に身構えつつ勢いよく身体を起こす。そして近づいてくる足音の主を目にするなり、一気に強張らせていた身体から力が抜けた。
「なんだ、黒川か」
「なんだとは何よ。失礼な奴ねぇ」
 そこにいたのは黒川花だった。
 花も勢いよく起きあがって警戒も露わに振り向いた綱吉に驚いたようで、少し目を丸くしてから綱吉の物言いに眉根を寄せる。綱吉はそれに軽く謝罪の言葉を重ねてから、短く問いかけた。
「京子ちゃんのお兄さんは?」
 言葉の足りないその問いに、しかし花は間を置かずに答えを返す。
「まだ説教中」
「……京子ちゃん達は?」
「京子達はあんたと同じ、もう仕事に出ているわよ」
 綱吉の更なる問いに簡潔に答えてから、花は腕を腰に当ててから肩を竦めた。
「あんた達もねぇ、畑荒らしを捕まえようっていう心意気はともかく、何でこの忙しい時期に問題を増やすわけ?」
 心底呆れたと言わんばかりの視線を投げて寄こされ、綱吉は俯いて口を窄める。
 主に自給自足で生活するこの農村では、一年が稲作を中心に農作業を行う。その稲作業も先月から本格的に始まり、沢田家も四日前にようやく田植えを終わらせたばかりだ。そして田植えを終わらせたからといって一息つけるはずもなく、確かに花の言う通り今の忙しい時期に問題を起こすのは大変宜しくない。
「とにかく、畑荒らしは大人に任せて、もう京子達を巻き込むのは止しなさい」
 どちらかというと綱吉は巻き込まれた方であるのだが、花はその事実を彼女自身の信条によりねじ曲げていた。
「ほら沢田、返事は?」
「……ふぁい」
 ギロリと睨め付けられ、綱吉は不承不承に頷いた。
「でもそれって、京子ちゃんのお兄さんにこそ言うべきだと思うんだけど」
「言ってるわよ。でもあの男が簡単に頷かないからこそ、今も説教中なんでしょうが」
「なるほど」
 納得である。
 今もどちらかと言えば困っているのは説教をしている大人の方なのだろうなと思い、綱吉は胸の内で四苦八苦しているだろう大人達に向かって「ご愁傷様」と呟いた。京子の兄、笹川了平ほど説得が困難な人種はいないだろう。
 綱吉は用水に浸していた足を引き上げてから、細道の上へと立ち上がった。家から履いてきた草履は別の場所に置いてあるので、素足のままである。
 用水路の中を流れる流水のおかげで足に付着していた泥は洗い流されていた。綱吉はそのまま疲れた膝をほぐすように屈伸させ、そういえばと膝を屈めた姿勢のまま黒川を見上げる。
「昨日黒川が教えてくれた噂のことなんだけど」
 そこまで口にしてから言葉が詰まる。しかし黒川は片眉を吊り上げてから、ああと綱吉が言わんとすることを理解したらしい。
「隣村のことね」
「うん。鬼の死体が見つかったって話だけど、本当なのかな」
「知らないわよ、そんなの」
 反応を伺うようにゆっくり言葉を紡いだ綱吉に反して、花は躊躇なく至極あっさりと否定の言葉を返した。
「だって私は見ていないんだから当然でしょ」
「そうだけど……」
 何て実の蓋もない返事をするのだと、綱吉は肩を落とした。
 綱吉は屈めていた膝を伸ばして花と視線の高さを合わせてから、何か他に言い様がないものかと考えを巡らす。
「鬼の死体って聞いて、何か思う事とかないの? 黒川は。鬼って死ぬんだーとか」
 そうして自分が思ったことを綱吉が述べると、花は面倒くさそうに肩を竦めた。
「ダメツナって言っても、あんたも男よね」
 そして次に吐き出されたその言葉に、微かに不快感を感じ取った綱吉は意味を問うように黒川を見据える。真っ直ぐに問いかけられた黒川は、ほんの少し苛立ったように自らの髪に指を絡めた。
「鬼は死ぬ。それを確認してどうするって言うのよ」
「どうするって…」
「鬼と戦でもしようっていうの?」
 思いの外、強い眼光に射竦められて綱吉は戸惑う。
 花の声とその瞳にはハッキリと、それを拒絶する色が浮かんでいた。けれど綱吉は花が言うような極論に至って尋ねたわけではない。
 そうではないと、綱吉は首を左右に振って意志を伝える。すると花は訝しげに眉根を寄せ、首を傾げた。
「じゃあ何だって言うのよ」
 逆に問い掛けられて、綱吉は答えに窮す。
 明確な答えを持つことができない綱吉は、けれど懸命に言葉を綴った。
「だからさ、少しでも鬼による被害が少なくなればいいように対策を……」
「だから、どうするの」
「…………」
「…………」
「は、話し合い、とか?」
「無駄ね」
 困窮した後に導き出した結論は、にべもなく一蹴された。
「そ、そんなのやってみないとわからな…!」
「無駄よ」
 抵抗するように抗議した綱吉の精一杯は、またしても一蹴される。それ以降は口を閉ざした。綱吉自身、話し合いが上手くいくとは毛頭思っていない。
 そして綱吉が閉口する傍らで、花は唇を噛み締める。
「無駄なのよ。鬼にとっての人間が食糧なら、それって人間にとっての家畜のようなものでしょ」
 家畜と真剣に話し合う人がいる?
 暗にそう告げる花の瞳を真っ直ぐに見詰めながら、綱吉の胸にふと得体の知れない物悲しさが生まれた。その綱吉の異変に気付いた花は、ぎょっと目を丸くする。
「ちょっと、なに? 何なの?」
「……鬼にとっての人間が家畜なら、鬼は人間を食べる時に心を痛めるのかな」
 綱吉が言葉を紡ぎ、その言葉が意図する意味を見いだした途端、花は口を半開きに硬直した。
「は?」
 一言。ひどく端的に彼女の気持ちを表した。
 その花の有り様に、綱吉は自分がひどく的外れな事を言ったのかと思い、思わず顔を赤らめる。言い訳を告げるようにして、だって、と言葉が口をつく。
「家畜を食べる時って、悲しくならない?」
「まあ。それは、そうだけど」
 綱吉の問い掛けに花は首肯してから、けれどどこか不服そうに「私が言いたかったのは、そういうことじゃないんだけど」と小さく呟いた。
 綱吉たち農民にとって魚や鳥、つまり肉類を摂取することは日常茶飯事とはいえない。週に一度食べられる贅沢品、というところである。そして家畜を食べるのはその家畜が病気になった時のみだ。
 幼い頃、身近における動物といえば家畜であり、綱吉はどうしたって愛着を注がずにはいられなかった。毎日餌をやり、小屋の掃除をしたりと親身に世話をするのだから当然といえば当然である。家畜の世話をするようになり、初めて病気になった家畜のことを親に相談した後、父親が横に倒れた家畜を見て「ダメだな、これは」と呟いた言葉を聞いた時の綱吉のショックの大きさは計り知れない。だというのに続く現実は、さらにその家畜を殺して食べるという残酷さだ。その時は腑分け作業を見ることは無かったが、幼かった綱吉はその日大いに泣いた。
 今は泣くことさえはないが、愁傷な気持ちを抱かないわけではない。
 しかし、綱吉の意図を汲み取った花は、だけど、と言葉を綴った。
「ありえないわよ、そんなの」
 心底そう思っているのがわかる声音で、花は綱吉に向かって言う。
「相手は鬼だもの」
 その言葉はすとん、と綱吉の中にも落ちた。
「……だよな」
「そうよ。じゃあ私、用事があるからもう行くわね」
「え、あっ、待って!」
 言い終わるなり颯爽と歩き出そうとした花を、綱吉は慌てて呼び止めた。花は少し面倒臭そうに顔を顰めながらも、足の動きを止める。
 そして視線で問い掛けてくる花に、綱吉は尋ねた。
「黒川、鬼の死体の話、誰から聞いた?」
 すると、花は見事に嫌そうに顔を顰めた。綱吉は思わずうっ、と言葉を詰まらせる。しかしそんな綱吉を見て、花は思い切り深い溜息をついてから仕方ないと言わんばかりに口を切った。
「いつもの、都から来る反物屋の行商人から」
 短く返された言葉に、綱吉は馴染みの反物屋の顔を思い浮かべてああと頷く。それから、はたと首を傾げた。
「そういえば最近、行商に来る人少なくないか?」
 元々多く行商が流れてくる場所ではないが、それでもここ最近は特に少ない。
 綱吉が訝しんで首を傾げていると、その綱吉の疑問を聞いた花が忌々しそうに顔を顰めて「追い剥ぎよ」と教えてくれた。
「街道に多く出るようになったみたい」
「ああ、それで」
「そ。近頃は<鬼隠し>もないし、鬼よりもこっちの方が重大ね」
 ふう、と小さく息を吐き出す花に<鬼隠し>がまた再発することを事実として知っている綱吉は、素直に賛同できず軽く受け流すに留める。
「それじゃ、いろいろ教えてくれて有難う。用事って何? 手伝えることなら手伝うけど」
「ああ、いい、いい。届いた文を和尚のところに届けるだけだし……それにおじさん、まだ帰ってきてないんでしょ。あんたが頑張らないと米とれないわよ」
 顔の前で手を振りながら言う花の素っ気ない言葉に、綱吉は苦笑して頷く。
 沢田家光の突然の失踪は、それなりに小さな村に大きな風を吹かせた。息子にとってはダメ親父でしかない父親も、村人たちからは親しまれよく頼りにされていたからである。そして<鬼隠し>かと思われていたところへ沢田家にリボーンが現れ、簡潔すぎる文が綱吉と奈々の元へと届けられた。文の意味を謀りかねることはできなかったが、とにかく生きていることが解った奈々はこれ以上村人たちへと心配をかけぬようにと、家光は急遽都へと出稼ぎに行っていることにした。
「――って、え、和尚!? 山寺の!?」
 思わず聞き流しそうになった単語に、綱吉が大仰に驚くと花も心底嫌そうに顔を歪めながら頷いた。
「だ、だ、大丈夫なの?」
「ま、適当にあしらっとく」
 懐からひらりと白い封書を取り出して、その封書を睨め付ける花の言葉に綱吉も苦く笑う。
 並盛村の端、石段を登った少し高い場所、山中の中に廃寺があるのだがそこへ数年前に修験者がふらりと現れ、いつの間にか住み着いている始末なのだ。医者の真似事もできるようで、村には他に医者もいなかった為にそのまま放置している状態であるのだが、腕はともかくその性格に難があった。
 綱吉はその男の元へと向かう花の背を不安げに見送る。けれど京子やハルに行かせるよりは、確かに黒川の方が安心であること認めて、綱吉はまた水田の中へと足を踏み入れていった。
 まだまだ雑草と害虫取りが待っている。


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