十
風が吹いた途端、幼子の前に跳んだ獣の姿がいなくなる。
獣は甲高く鳴き声を上げながら、幼子より遠く離れた場所で横転していた。そして力が入らないのか膝を折り曲げながら、やっとで身体をもたげてこちらを見据える。鳴く声は弱々しい。
周りに集まっていた他の獣が警戒するように唸り声をあげて、風が吹きこんできた方向を凝視した。幼子も根元に倒れたまま、頭だけでも振り向こうとするが、そこまで力が入らない。けれど次の瞬間、幼子の視界の中に黄色い固まりが映った。
獣のようにごわついていない、ふわふわと柔らかそうな羽毛に包まれたその物体は真っ直ぐに幼子へ向かってくる。そして幼子が倒れる樹木の枝に羽を止め、甲高く人の言葉を放った。
「ヤラレタ! ヤラレタ!」
「!?」
子供のような幼い声で、しかし鳥にしては流暢な言葉だったことに幼子は驚き、俯いた身体を仰向けにしてその黄色い小鳥を下から見上げる。
獣たちも驚いたように鳥を見上げたが、すぐに鳥からも幼子からも視線を外して別の方向に関心を向けた。そしてよろめいていた獣が立ち上がるなり、幼子を取り巻いていた獣たちは足早に立ち去っていく。倒れていた獣の場所に転がるのは、木刀よりも短い棒のみ。
そんな眼下の様子など気にした様子もなく、鳥はさらに言葉を放つ。
「ヒバリ、ヤラレタ!」
「…まるで僕がやられたみたいな言い方はしないでくれる? 不愉快だよ」
鳥の言葉に答える声があった。幼子は驚いて、視線だけを動かして声の主を捜す。
その人はすぐに見つかった。
その人は幼子に構わず獣が倒れていた場所に向かい、そこに落ちていた棒を拾い上げる。そしてまるでそうするのが当たり前のように、それを己の袖の中へと仕舞ってしまった。
それから起き上がれず倒れたままの幼子の元へとゆっくりと歩いてくる。近くに来て、ようやく幼子にもハッキリとその姿がわかるようになった。
しかしその姿が目につくなり、人の登場に歓喜していた幼子の心はまた凍てついた。
濃い藍色の着流し姿をしたその人の額には、一対の角。
鬼だ。
その鬼の目が、じっと幼子を見下ろしてくる。
「……た…べる、の…?」
声は既にか細く、かすれてまともな声も出せずにいたが、幼子は自分を見下ろす目を見つめて問うた。
恐怖心は相変わらず幼子の心にある。けれど鬼の姿が獣ではなく人の姿にそっくりな事と、朦朧とする意識のせいでハッキリと鬼の顔を見られないことが、幼子を救っていた。
そして質問をする際で、幼子は覚悟する。それは覚悟というには漠然としすぎた幼い認知と疲れた感情から来るものであったが、自分はこの鬼に喰われるのだと幼子は思っていた。
けれど返ってきた返事は全く予想だにしなかった、完全な否定。
「食べないよ」
低く穏やかにさえ聞こえる鬼の声が、今度は幼子の心を大きく揺さぶった。幼子は目を見開いて鬼を見つめる。咄嗟に何で、という言葉が幼子の心の中に生まれたが、その言葉が口を出ることはなかった。
幼子が呆然と鬼を見上げる中で、先程の小さな黄色い鳥が止まり木を蹴って宙を飛んだ。そしてそのまま鬼の頭上に止まる。まるでそこが定位置だと言わんばかりに鳥は鬼の頭の上で寛ぎ始め、またそれに対して鬼は文句も言わない。
そんな鬼という言葉の持つ殺伐さとはかけ離れた、不思議と長閑さえ感じさせる光景に、幼子の身の内に巣くう恐怖がうっすらと薄れた。
それを察したわけでは無いだろうが、そんな幼子に向かって鬼が声をかける。
「ねえ、いつまでも寝ていないで立ったら?」
そんなことを言われても、体力の失った身体と血の流血によって痺れた手足は幼子の思う通りには動かなかった。いくらか踏ん張って上体を起こした幼子であるが、立ち上がるまではいかず樹の幹に寄りかかる。
それだけで幼子は浅く息を繰り返してしまう。その様子を見ていた鬼がまるで幼子の軟弱さを責めるように小さく息を吐いた。
「ご、…ごめ…さ、けほっ」
「何で謝るの。べつに人間の脆弱さは今に始まったものじゃないだろう。とりわけ子供はね」
咄嗟に謝罪の言葉を告げようとした幼子を遮って、鬼が幼子を見下ろしたまま言い放つ。その声音に労りの色は無いが、また蔑んでいる気配も無かった。ただその事実を面倒そうにしている。
暫し鬼は沈黙してから、幼子の視線に合わせるように膝を折って片膝を付いた。より近く見えやすくなった鬼の顔は不機嫌そうに口を尖らせ、眉を寄せている。
「仕方ないから、人里までは運んであげるよ。それから助けを呼ぶなり、自力で帰るなりすればいいさ。その途中で野垂れ死ぬようだったら、やっぱり君を喰うね」
そしてそんな事を憮然とした表情で言ってきた鬼は幼子の身体の下に手を差し入れて、ぐっと腕に抱き上げた。簡単に浮き上がった幼子の身体はそのまま鬼の腕の中に収まる。
しかし突如として不安定な浮遊間に襲われた幼子は、咄嗟に鬼の濃紺の着物を掴んで身体を支えてしまったけれど、鬼の言葉を理解するなりその腕を突っぱねた。
「…だ、め……やだ…」
「何が?」
弱々しい抵抗はもちろん鬼には通用せず、幼子はそのまま鬼の肩に担がれるようにして運ばれる。
鬼の頭がより近く見え、そこにいる黄色い鳥と幼子の瞳がぶつかった。鳥は「ピ!」と一鳴きしてからあっさりと幼子と視線を外してしまい、相変わらず鬼の頭上に埋もれるようにして蹲っている。
幼子も鳥から視線を外して、顔を真っ直ぐに向けた。担がれている為に見る方向は鬼とは真逆になる。
幼子の視界にはまだ若い、色の薄い小さな若葉を下げた木々に満ちた。所々に色付いた葉は葉であらず、見開いた花弁に幼子の視線が注がれる。
「花…山吹の……」
あれを、持って帰らなければ。
幼子の脳裏に当初の目的が浮かび上がり、不意に焦燥に駆られた。手を伸ばす。指先を真っ直ぐに。けれど幼子が求めるモノにその手が届くことは無く、逆に引き裂かれるように間だけが開いた。
鬼はその幼子の様子をちらりと流し目で伺ったが、足取りは躊躇なく進む。しかしその歩みが俄に止まった。
鬼の視線の先には見慣れた人の影。その人影は慌てたように足取り早く駆けていたが、前方に立つ鬼に気がつくと途端として空気を変え、大手に振って鬼の元まで駆けてくる。へらへらしたその表情まで見えるようで、鬼は苛立ちげに舌を打った。
「おおい!」
「!」
穏やかな山中の中を響く大声は無論、幼子にも届いたらしく鬼の肩越しになんとか振り向こうとする。鬼はその幼子の動きを些か乱暴に抑えてから、やってくる壮年の男に向かって止めていた足を進めた。
「…お、もしかしてツナか!」
数歩分の距離まで縮まった時点で、男の表情がいよいよ喜色満面に染まる。幼子は突然に自分の愛称を呼ばれ、必要以上にびくりと身体を震わせた。けれど次に幼子が何か行動を示すより、鬼が肩に担いだ幼子を物のように男に放るほうが早かった。
その幼子を難なく受け取った男はそのまま幼子の両脇の下に手を差し入れて、目を白黒させている幼子と目線を合わせるように持ち上げる。
「やーっぱ、ツナか! 心配したんだぞ。駄目だろ、何も言わずにお出掛けしちゃ!」
「…お…おと、さん…?」
締まり無く笑っていた顔をほんの少し顰めて、男は幼子に「めっ」と叱り付けた。その言い方に怖さは欠片も感じられないが、幼子は自分を抱き上げる男が己の父親だとわかるなり、ゆるゆると涙腺を緩めた。瞬く間に幼子の瞳に滴が溜まる。
そして父親の名を呼びながら、幼子は盛大に泣き出した。
「おー、よしよし。もう父さんが居るから大丈夫だぞ」
男は幼子を抱き上げる手の位置を変えて、幼子の小さな身体を囲うように抱きしめる。幼子もしっかりと男の首に腕を回して、縋り付くように大粒の涙を出し惜しみなく流した。
わんわんと泣き崩れる幼子の姿に微笑みながら、あやすように男は幼子の背を撫でる。
「んー、そうかぁ、怖い思いしたんだなー。ああ、もしかしてこの目の前にいるお兄ちゃんにでも苛められたのか? そりゃあ、怖かっただろうなぁ」
「……沢田家光、どうやら貴方は咬み殺されたいみたいだね」
今まで静かに幼子と男を見据えていた鬼の腕に、突如として先程仕舞ったはずの棍が取り出される。
チャキ、と構えられたそれに、男は幼子を抱いたまま数歩下がった。それから誠意の感じられない声で「悪かった、そんな怒るなよ。怒るとハゲるぞ、毛根が死滅するから」と謝罪してくる。鬼は苛立たしげにフンっと鼻を鳴らしてから構えを解いた。そのまま袖の口に手を差し込んで、腕を組む。
そして男に冷たい眼差しを向けた。
「それよりその子、結構血、流してるみたいだけど」
手当をしなくて良いのかと案に促すと、そこで男は初めて気がついたように目を丸くして、自分の腕の中にいる幼子を見下ろした。そして幼子の足から流れている血にようやく気づき、あっと声を上げる。
それからの行動は速かった。男は地面に膝をつけて、そのまま泣き続ける幼子をゆっくりと地面に降ろす。そして男の首に回る幼子の腕を優しく解いてから、男は自分の懐に手を入れて手拭いを取り出した。その手拭いを幼子の傷を負った足に巻き付け、その場限りの応急処置を施す。少なくとも圧迫させる手拭いは止血の役目にはなる。
幼子は他にも所々傷を負っている様子であったが、足の傷以上に深い傷は見あたらないようだったので男はそれで良しとし、地面に座らせていた幼子をまた抱き上げた。幼子もまたぎゅっと男に抱きついてくる。
その幼子の頭をぽんぽんと軽く叩くように撫でてから、男は数歩先にいる鬼に向かって笑みを浮かべた。
「ありがとな。ウチの息子をまた保護してくれたんだろ?」
「偶々通りかかったからね」
「ははっ、ホント助かったよ」
ニッと笑ってくる男を鬼は胡散臭げに睨め付ける。それから小さく息を吐いた。
「……あなたといい、その子といい、本当に血は争えないね」
呆れたような物言いに、男が眉尻を下げて頭を掻いた。鬼は困ったように笑う男を一蹴する。
「次は無い。その子にしっかり伝えておきなよ」
「…ん、ああ。――よしっと、じゃあそろそろ帰るよ。きちんと手当をしてやらなきゃならねーからなぁ」
幼子を抱き直しながら、男は表情を一転させて鬼に対して改めて挨拶を交わした。その挨拶には答えず、鬼は無言のまま睨め付けるが男は気にした風もない。しかし元来た道を引き返そうと身を翻したところで、腕の中の小さな自己主張に男は気がつく。
「お、どーした? ツナ」
「…………はな…」
幼子の声は小さくて聞き取りづらい。それでも何とか聞き取った男は「ハナ?」と首を捻った。
既に男は鬼に背を向けてしまっていたので、鬼からは彼らの顔を伺うことはできない。けれど男の疑問に満ちた声は鬼にも届いた。
鬼は本当に小さく息を吐き出してから男と幼子に背を向けて、そのまま山道を外れて獣道に入っていく。その際に鬼の頭に蹲っていた黄色い鳥も飛翔して近くの枝に留まった。留まった枝の先で鳥が真っ直ぐに鬼を見下ろす。
「…雲雀…?」
少しして鬼の行動に気付いた男が振り返った。けれどその時は鬼もちょうど獣道から山道に戻り、枝に留まっていた鳥も鬼の肩へと舞い降りる。問いかけるように、囀りながら。
「ヒバリ、ヒバリ」
「…煩いよ、黙って」
肩の上で囀る鳥を制して、鬼が男の前に立つ。
鬼の顔は相も変わらずの仏頂面であったのだが、男は鬼を見て目を見開いた。男が知る鬼とは連想しづらい『異物』を手に握っているからだ。
「どうしたんだ、それ」
「………」
しかし鬼は男を一瞥しただけで問いには答えず、その『異物』を男の腕に抱えられている幼子の方へと伸ばす。
幼子は伸ばされてくる鬼の手を追った。
「――花…?」
鬼の手に握られたのは、黄色い花。
よく似た視線を送る親子を無視して、鬼はその花を幼子の耳に掛けた。父親と同様に色素の薄い髪色に、小さな黄色い花が咲く。
花から手を離した鬼の手は、そのまま幼子の頬を一撫でした。幼子の頬は鬼の指先を柔らかく受け止める。その一連の動作を、幼子が目を見開いたままじっと見つめた。
「――あげるよ」
幼子と目を真っ直ぐに合わせながら、淡々と。
「花が欲しいんでしょ」
幼子はゆっくりと目を瞬いた。視界の端に映るのは、黄色い花弁。
また鬼と目を合わせる。そして幼子は、柔らかに笑んだ。
「ありがとう」
綴られた言葉は虚空に浮かび、目の前に立つ鬼へと届けられる。
鬼は何も答えず、幼子の前に立ち続けた。幼子の顔には変わらず花が咲いている。まるで傷の痛みや先程までの恐怖など忘れてしまったかのように、幼子は一転して上機嫌に花を咲かし続けた。
黄色い花は、幼子の耳元で不安定にゆらゆらと揺れる。
男が、そんな幼子と鬼を見て、へらりと締まり無く笑った。
「向かい風」第一章《完》 2008/1/18 ::