九
普段は静けさを纏う山は、その日だけは地面を揺るがす程の騒々しさに満ちていた。
どたどたどた、と響くのは幾つもの足音。空気中に満ちるのは殺気にも似た、餓えた欲望――と。
「ぎゃあああっ、あの、ホント! 俺食べても美味しくありませんからぁって、もうヤダ助けてリボーン!!」
涙声に叫ばれた悲鳴が木霊した。その背後からは主に地面を揺るがす足音の主達による怒号が続く。
彼らは『鬼』と呼ばれる、人ならざる存在だ。その鬼の里に半ば無理矢理連れ込まれた「兎」は、必然と「野獣」と化した鬼に追われることとなる。
正に脱兎の如く逃げる綱吉であるが、体力の限界は否めなかった。最強の(最凶でもある)赤ん坊の名を叫びながら助けを求めるが、一向に救世主の姿は現れない。その事実に心の中で罵詈雑言を浴びせ続ける綱吉は、そのまま背後から追ってくる鬼達から逃れるのに必死で目の前に聳えた門を頓着せずに潜った。
さらに母屋の隣を過ぎ、庭を出て塀を越えようと視界を広げたところで綱吉は身体を硬直させる。
「…あっ……」
「待てこの――! ぎゃあっ」
綱吉を追いかけてきた鬼の集団も、同じく前を見据えて動きを止めた。目を瞠目させ、顔を青ざめるところまでも同じ。
彼らの視線の先には、一人の鬼の姿。
「煩いんだけど」
抑揚を感じさせない低音に、しっかりと眉間に寄った皺。吊り上げられた切れ長の双眸。
動作を見せない速さで構えられた冷たい鈍器。
「それと、群れないでくれる。咬み殺すよ」
――それ正に、鶴の一声。
***
カコン、と鹿威しが水の重みで反転して乾いた音を定期的に立てる以外は、山に住む鳥の囀りが微かに聞こえるだけで辺りは静寂に満ちている。
整えられた庭園の一部と化すその鹿威しの音だけが、綱吉に時間が流れていることを告げていた。
筧からまた水を引き入れる竹筒は、やがて水の重みに耐えかねて右に傾き、蹲踞へと水が流れ出る。そして再びたたき台の上に竹の左端が落ち、カコン、と乾いた音が澄んだ空気の中を響き渡った。
綱吉は差し出された座布団の上に正座をしながら、視線だけでやけに広い座敷を眺め、そして此の座敷の主である鬼を怖ず怖ずと見据える。
けれど次の瞬間には、バッと上げた顔を俯かせた。今や綱吉の視界は、畳張りの一点のみ。
丁度視線を上げた先では、悠然とした佇まいで胡座をかいて座っている鬼が綱吉を見ていたのだ。思いがけず視線が合ってしまい、綱吉は何かを考える間もなく顔を俯かせたのである。
そしてその綱吉の頭上に、沈黙を静かに壊す淡々とした言葉が落とされた。
「ひどい顔」
――それは…、ほぼ貴方のせい何ですが。
反射的に返る言葉は、しかし口からは出ず。
元々が農家である綱吉の身体は小さな傷はそれこそ当たり前で、さらに昨日の騒動が元であちこちに傷を作っており世辞にも小綺麗とはいえない。けれど今、綱吉の顔はその身体以上に、正に鬼の言う通りに酷い状態だった。正確に言うならば左頬。
昨夜帰り道に綱吉自身が思った通りに、鬼によって殴られた左頬が思い切り腫れている。今では恐ろしくて触れることもできやしない。
「それで、君は一体何しに来たの」
思わず頬の腫れに気を引きつけられていた綱吉は、鬼の切り返された言葉にハッと頭を上げた。
鬼は先程と一寸も変わらぬ格好で綱吉を見ている。
「わざわざ咬み殺されにでも来たのかい」
「い、いえそんなまさかっ…」
ぶんぶんと勢いよく、それこそ千切れんばかりに首を横に振って拒否る。
「なら、何? あの赤ん坊ならともかく、君に用はないよ」
俺の方も全く用なんて無いんですけど…!
「その何と言いますか…っ、あの赤ん坊がですね、俺を無理矢理ここへ連れて来た挙げ句に放置してくれまして! そしたら鬼の皆さんが追いかけて来るものですから! ほんと、あの、咬み殺される気なんて全然っ、全く」
首だけではなく更に両手を加えて、綱吉は必死の形相で事の原因を告げる。
そう、綱吉がようやく畑打ちの作業を一息つけたところであの赤ん坊、リボーンがやって来て綱吉を並盛山にせっついたのだ。もちろん綱吉は抵抗したけれど、そんなことは赤子の手を捻るようにして簡単に覆されてしまった。赤子は綱吉ではなく、リボーンの方であるというのに。
そうして脅されながら山を恐る恐る登ってみれば、辿り着いたのはこの鬼の集落だ。
続いた正に字の如く命を賭けた鬼ごっこを思い浮かべては、綱吉はブルリと身体を震わす。何故か鬼の集団も怪我を負ってボロボロな姿であったが。
そしてその鬼ごっこに終止符を打った人物はといえば、それは昨夜逢い見た鬼で、さらにリボーンの言う通りであるならばこの並盛山に住まう鬼たちの頭である雲雀恭弥だ。
綱吉は所体無く動かしていた手を止めて、慣れない正座で痺れ始めている足の上に拳を作って置く。伺うようにして視線をゆっくりと上げれば、問いかけた本人は既に綱吉に注意を払ってはいなかった。ただ綱吉の言葉が切れたのを境に口を開く。
「草壁、お茶」
しかしその口から出た言葉は、綱吉とは全く関係のない。綱吉はまた頭を下げて俯いた。
暫くすると襖が音を立てずに開かれ、そこからどこか見覚えのある十徳姿をした男が盆に湯気を上げる鉄瓶と湯飲みを載せて座敷に中へと進めてくる。
その強面の鬼の姿に綱吉はひっと小さく悲鳴を上げそうになるが、寸前のところで両手で口を覆うことに成功した。けれどその挙動不審な行動が目についてしまったのか、盆を運んでくる男の視線がついと綱吉に向けられる。
「す、すみませ……」
十徳姿の男と視線を外せぬまま、固まったように動けずにいる綱吉は無意識か反射の要領か、謝罪を口にした。しかし謝罪を口にした事で我に返ったように、綱吉は慌てる。
「あああの! そんな、お構いなく」
上擦った声のままに差し出されるだろうお茶を思って、綱吉はすぐ帰りますからっと遠回しに鬼に断りを告げた。
胸内には鬼が飲むお茶という言葉に震え上がっている。
第一、鬼ってお茶を飲むものなのか。もしかしたらお茶はお茶であらずで、赤黒くてどろどろした液体が出てきたら、とそこまで考えて綱吉の顔からサーッと血の気が引いていった。
けれどそうして思考の渦に埋まった綱吉を引き上げるのは、良しも悪しくも昨日と変わらず淡々とした鬼の声である。
「君にじゃない」
「――っは?」
「僕が飲むんだよ」
はっきりと告げられたその言葉を処理するのに、綱吉は瞬き二、三回分を要した。
その間に雲雀は、十徳姿の鬼から受け取ったお茶を口に含む。草壁と呼ばれた鬼は恭しく頭を垂れてから、来た時同様に音を立てずに退室した。襖を閉める時だけ小さく、弾けるような音が響く。後を追うようにして庭園の鹿威しがカコン、と鳴った。
雲雀はお茶の入った湯飲みを長火鉢の上に置き、火の点いていない五徳の上に置かれた鉄瓶の取っ手をその細長い指に引っかける。そのまま呆然としている綱吉を一瞥して、嘲笑うように冷笑した。
「なに、君。若しかして貰うつもりでいたの」
そして指先にほんの少し力を入れて持ち上げ、気に入る角度に置き換えてから引っかけた指をそろりと放す。
綱吉は血の気が引いた顔に、一気に血が逆流するのを感じた。
理解してみれば、それはもう簡単で。冷笑する鬼の顔からはハッキリと、何でお前みたいな低俗な人間にわざわざお茶を差し出さなきゃならないんだよ、的な言葉が読み取れる。
綱吉は血が上って頬をカッカさせながら、がばあっと大仰なまでの動作で額を畳みに押しつけた。
「すみませんでしたあっ!」
俺風情が図々しくも厚かましく思い上がったことを申しました!ごめんなさい!あの、ですから俺もう帰ってもいいですか!?
動作は大仰であるが、しかし意識に登る言葉の半分も言えず、綱吉は土下座の格好のまま固まった。畳に額をくっつけながら、顔に血が上りすぎて瞳が潤んでくるのを感じる。
そして綱吉の様子など顧みない雲雀の言葉が、無情にまた頭上から告げられた。
「べつにいいけど」
「……は?」
しかしまたしても告げられた意味がわからない。
綱吉は畳に手をついた状態で顔だけを上げて、変わらず胡座を組んだ格好のまま見下ろすようにして綱吉を見据えている雲雀の顔を伺った。
「飲みたいなら飲めば?」
そしてやはり綱吉の様子など顧みず、雲雀は表情の乏しいまま、すっと人差し指をとある場所に差し向ける。差し向けられた軌跡を追うと、黒檀で造られた長火鉢の上には雲雀の物であろう湯飲みとはべつに、もう一つ湯飲みが置かれていた。
そこで初めて気付いた綱吉は「あっ」と小さく声を落とす。 草壁と呼ばれたあの鬼は、きちんと綱吉の分も注いでくれていったらしい。
「え、えとじゃあ……いただきます」
「うん」
体勢を整えてから綱吉分に淹れられた湯飲みを手にして、まともに視線も上げずに了承をとると、綱吉はそのまま湯気をゆるやかに上げるお茶を胃の中に流し込んだ。
初めて見る鬼のお茶は、赤黒くどろどろしたものではなく、きちんと緑色だった。寧ろ普段から綱吉が飲んでいる出涸らしの茶よりも濃く、良い香りまでする。思わず、と綱吉はほうと息を吐き出した。
雲雀もまた自分の湯飲みを持って、口を付ける。それからは定期的に鳴る鹿威し以外辺りは静まりかえり、綱吉にとっては居心地悪い静寂が訪れた。
粗茶を飲む行為ぐらいしかできず、綱吉はちょびちょびと飲み進めながら、視線を意味もなく周りに泳がす。そして何故こんなことになったんだろう、とほんの少し過去を振り返って、遠い目になったところでハタと目を瞬かせた。
「あの……野菜とか食べるんですか?」
湧き出た疑問を口に乗せると、雲雀は片眉を吊り上げて綱吉を見据える。それが先を促されているように感じた綱吉は、しどろもどろに言葉を足した。
「あえっと、さっき……というかまあ、あの……畑、ありますよね? 此処に」
なにぶん、恐怖とリボーンへの雑言と逃げるのに必死であまりはっきりと記憶していないのだが、鬼との追いかけっこの最中に綱吉は確かに人の手が加えられた農耕地を見た。
意外といえば十分意外なことである。てっきり鬼は人間しか食べないのだとばかり思っていた。
けれどそれを鬼に直接聞けるはずもなく、綱吉は暗に告げる。その綱吉の言う意味を察した雲雀は、ああと小さく頷いた。
「野菜ね……、食べるよ勿論。肉ばっかりだと飽きるし、第一身体に悪いだろう」
「で、ですよねー……あは、ははは」
綱吉は強張りつつある顔を、無理に引きつった笑顔で相槌を返しておく。深く突っ込んではいけない。
(肉って人間、だよな。ハハ。……ああもうまじで怖ぇー!)
「じゃあ人、間以外…も食べるんですか」
「そりゃあね」
綱吉にとっては気まずい質問の問いも、雲雀は至極あっさりと肯定した。
そのまま飲み終わった湯飲みを火鉢の上に置いて、雲雀は目を伏せる。綱吉を威圧させる鋭い双眸が閉じられてしまえば、真昼の日差しを受けて佇む姿は不思議と恐怖を感じなかった。一対の角さえ無ければ、その姿は人間と変わりない。
ずず、と冷めて生温かくなりつつあるお茶を含みながら、視線が向けられないことを良いことに綱吉はじっと鬼の観察を続けた。
そして訪れた静寂を、しかし今度は気まずく思うこともなく綱吉は静観する。
「ヒバリ!」
「!?」
けれどその静寂は突然の闖入者によって破られた。
「ヒバリ、ヒバリ」
「――…あっ…」
甲高い子供の声で、舌足らずに鬼の名を連呼しながら現れたのは一羽の鳥。一見すれば毛の固まりかと見誤る思うほどに小さな黄色い小鳥だ。
春の日差しを受けながら軒下を潜って座敷に侵入したその鳥は、落ち着く場所を探すようにくるくると旋回しながら恐れもなく雲雀の頭部に収まる。雲雀もまた何かを言うつもりはないようで、鳥の好きにさせていた。
その少し奇妙で不思議な光景に覚えるのは、既視感で。
綱吉が食い入るようにして凝視していると、視線を感じたのか身繕いしていた鳥が動きを止めて振り返った。思考を感じさせない真ん丸い目と目が合い、逸らす機会を逃した綱吉と鳥が見つめ合う。
そして気まずさに揺れ始める綱吉の瞳孔を咎めるように、鳥が無機質な声で「ピ!」と甲高く鳴いた。
切っ掛けは、それで。
「あ――ああああっ!!」
綱吉は取り繕う暇もなく驚きのままに声を張り上げてしまった。
その声に驚いたのか鳥が羽を広げ、鬼の頭から飛び立ってしまう。雲雀もまた綱吉に向かって「煩い」と端的に咎めてきた。しかし綱吉は湯飲み茶碗を掴む手に力を入れながら、身を乗り出すようにして雲雀に向き合う。
「ひっ、ひひひひ雲雀さん!」
「……………なに」
嫌そうに顔を顰める雲雀の様子も目に入らない勢いで、綱吉は続けた。
「つ、付かぬ事を伺いますが。ええと七、八年ほど前に並盛山で野犬の群れに襲われていた子供をその、助けられた覚えってありますでしょうか!?」
言い終わった時には既に、綱吉は肩で大きく息継ぎを繰り返していた。昔の、恐れ多い記憶を呼び覚ますキッカケをつくった当人である鳥は、今は雲雀の肩に何食わぬ顔で留まっていた。
興奮が冷めない内に、ちらりと雲雀を伺い見れば彼は心底呆れたような視線を綱吉に寄越す。
「何、今頃思い出したの。随分と都合の良い頭だね」
「……ごめんなさい」
心持ち乗り出していた身体を元に戻して、綱吉は縮こまりながら小さく謝罪した。
これは今まで忘れていたことを咎められているのか、または今になって思い出す綱吉の愚鈍さに呆れているのか判断に困るところである。そして我ながら、幼かったとしても何故こんなインパクトある事実を忘れていたのかと不思議に思う次第だ。
そこまで考えて、綱吉はハッと顔を上げた。
「ってことは、やっぱり雲雀さんが……って、え!?」
「今度はなに」
「あっはい。あの、その助けられた子供が俺だって知ってたんですか…?」
しかも雲雀の言い方では、彼の方は綱吉より先に思い出していたことになる。
綱吉は身体を縮こませたまま、湯飲みを持つ手の指先をもじもじと掛け合わせながら問いかけた。すると雲雀は小さく吐息をついてから、綱吉の問いに答える。
「沢田家光」
「……えっ」
突然告げられた父親の名前に、綱吉は首を傾げた。
雲雀はそんな綱吉を無視して言葉を紡ぐ。
「野犬から君を助けた時は、君の父親から君の名を聞いた」
切れ長の瞳に真っ直ぐ見つめられ、相槌を求められているような気になる綱吉はしかし、何とも言えずに押し黙ったまま雲雀の言葉を待った。
思い出したといっても、やはり記憶は朧気なのだ。それが幼い頃の記憶ならば特に。
「――昨日は村長から君があの人の息子だって聞いたんだ。気付いても可笑しくはないだろう」
「そ、うですね…」
気怠げに肩を竦める雲雀を前に、綱吉は曖昧に相槌を打つだけに留めた。それから俯き気味にちらりと雲雀を一瞥する。
記憶にある鬼と今目の前に座る雲雀に、外面の変化は見つからなかった。綱吉が少年になる前、幼児の頃に会ったのだから、人間ならば雲雀は既にいい大人となっている。
(鬼って成長しないのかな)
ここ半刻ばかりで随分と鬼について知れた、ような気がする。べつに知りたくも無かったけど、と思うのはご愛嬌だ。
綱吉は湯飲みの中ですっかり冷えてしまったお茶を見つめて、それからぐぐっと煽った。何度か嚥下を繰り返して、湯飲みを口から離す。濡れた唇を乱雑に手の甲で拭ってから、綱吉は手に持った湯飲みを元あった長火鉢の上に戻した。
そして今度はしっかりと顔を上げて雲雀を見据える。雲雀はその綱吉の様子を興味深げに見返した。
綱吉は空いた両の手を膝の上においてから、ゆっくりと口を開く。
「えと、あのじゃあ今更なんですけど。助けてくれて、その、有難う……ございました」
「…………」
「……あっ、それと昨日も! ありがとうございました!」
と、見苦しくない程度に身体を倒してペコリと首を下げる。
しかし数秒と経っても雲雀からの返答はなく、綱吉は身体を硬直させた。やはり会釈程度では駄目だったのだろうか。もっと跪いて恭しく、土下座くらいの構えで感謝をしやがれ、とかそういう無言の圧力だったりするのだろうかコレは。
そして冷たい汗が首筋を伝い、綱吉の笑顔が引きつり始めた頃からきっかり十五秒の間をとって、やっと雲雀が言葉を紡いだ。
「なにを言うかと思えば……」
しかし紡がれた言葉は綱吉にというより、独り言に近い。けれど和んだと思った双眸は、すぐに無表情に戻って綱吉を見据えた。そして開いた口から漏れた言葉は容赦ない。
「本当に今更だよね」
「うぅっ」
上げていた顔をまた俯かせて、綱吉はちょっぴり流した涙を汲んだ。
「それと君、昨日もって言ったけど……それについては礼を言う必要はないよ。何も変わっていないからね」
雲雀が淡々と零す言葉に綱吉は引っ掛かりを覚えて、俯かせていた顔を上げた。
視界に収まる彼は肩に乗る黄色い鳥に向かって手を差し出している。鳥はその手に乗ろうか迷っているかのように、小さく小首を傾げていた。
「どういうことですか?」
首を戻した鳥はその小さな足で雲雀の肩を蹴ると、彼が差し出す指に移る。綱吉はその様子を何と無しに見ながら、雲雀に向かって問いかけた。
雲雀の視線は鳥に向けられたまま、先刻までと変わらない声音で返答を寄越す。
「そのままの意味だよ。昨日咬み殺すのを止めたからといって、今後彼女を咬み殺さないなんてことは無いんだから。昨日の顛末はほんの少し彼女の死を遠ざけただけに過ぎない」
「それは――」
鬼の言葉は、綱吉も考えなかったことではない。リボーンとの帰り道、就寝する時、何度か浮かんでは振り払ってきた。今までも突然の行方不明という恐怖が存在してはいたが、それが推測の範囲を超えて『鬼』との関わりを持った今、綱吉の恐怖は身体にまで及んでいた。
謎が『突然の行方不明』であった頃は恐れながらも、まだどこか他人事に感じていたのである。自分の身に及んで、初めてその恐怖を知る。
頭の中が真っ白になって、目の前が真っ暗闇に包まれた。そうして任された畑打ちの仕事もろくに手がつかず、リボーンに無理やり連れられて綱吉は今ここに居る。
「それは――そうですけど」
ぎゅっと、溢れる恐怖を握りつぶすように、綱吉は膝に乗せた拳に力を込めた。
「それでも彼女は今、生きてます」
そうとしか言えない綱吉は不甲斐ない自分に下唇を噛み締め、けれど決然と雲雀と向き合う。
例え久美子がこの先死んでしまっても、昨日鬼の気紛れで助かった命は"良かった"ことだ。決して悪い事では無い。だから綱吉が偽善だとか無意味だったとか嘆く必要は米粒ほども無く、むしろ綱吉が気にするべきことは――。
向き合う雲雀の目が冷ややかに細められた。今までの無表情とは違う、その圧力に耐えるように綱吉は更に拳を握りしめる。
そして冷たい声が、雲雀の口から短く綴られる。
「次は殺すよ」
「させません」
淀みなく、間髪入らずに綱吉は返事を返した。
綱吉が気にするべきことは、不明瞭な不幸な未来を想っての嘆きではなく。未来を。
「殺させません。村の誰も、もう死なせません。俺が…」
未来を。
来るべき不幸せな未来を打破させる覚悟と決意を。
「俺が、守ってみせる――絶対に」
――胸に抱けるか否か、ということ。
「ふうん?」
綱吉の言葉に、それまで冷たい眼差しをしていた雲雀の瞳が愉快そうに煌めいた。
そして鳥を乗せていた指先を振って、鳥を払い落とす。鳥は抗議を上げるように甲高く一声鳴いたが、雲雀は見向きもしない。
「なら、強くなりなよ」
「……えっ、て、うわちょっと!」
面白がるような雲雀の声に続いて、綱吉の視界に一瞬黄色い羽根が映った。そしてまるで先程の雲雀の所業に対する八つ当たりのように、その黄色い羽で綱吉の額を打つのは鳥。
綱吉は追い払うようにして手を伸ばすが、しかし鳥はその手を巧妙に掻い潜って、最終的には綱吉の頭部に落ち着いてしまった。綱吉は見えない鳥の姿を頭に感じて、むず痒くなる。
「あの、この鳥……」
どうしましょうという意味を込めて恐らく飼い主だろう鬼を伺うと、「そこ、気に入ったみたいだね」とずれた返答が返ってきた。
綱吉はそれ以上しゃべることもできず、黙り込む。頭に鳥の重みが乗っていて、不思議な気分に陥る。そんな綱吉の様子を雲雀が楽しげに見ていた。
「君は子供だね、何も知らない」
「……うっ」
「だから早く強くなりなよ、大人になる前に。君が――…」
そこで、不自然に雲雀の言葉が途切れる。綱吉は促すように雲雀を見返すが、その時は既に雲雀の声はべつの言葉を紡いだ。
「暫くの間は人を食べる気はないから、精々その間に強くなることだね」
「え? 暫くって……」
どのくらいですか。
聞こうとして、けれど眠そうに欠伸をする雲雀の姿に答える気が無いのを察した綱吉は押し黙る。しかし雲雀の言を信じるならば"暫く"の間は人が食べられることは無いのだ。ほっと安堵の息が漏れる。
そして改めて抜けきった身体に力を入れた。
「あの、雲雀さん。俺そろそろ帰りま」
「ダメ」
みなまで言わせずに、雲雀は綱吉の言葉を一蹴した。
「な、何でですか?」
まさか「早く強くなりなよ」とか「暫くの間は人を食べる気は無い」とか言いつつ、ここで綱吉を食べるつもりなのかと恐ろしい考えが綱吉の脳裏を過ぎる。しかしもちろん、雲雀にそんな気は無く、綱吉のただの杞憂に終わる。
雲雀は欠伸の後の生理現象で目尻に浮いた涙を拭いながら、「赤ん坊」と一言告げた。
「え。り、リボーンの奴が何か?」
「うん。彼が来るまで君はここに居て」
端的に命じられた言葉は、けれど遠回しにとある事を指していることを鋭敏に察した綱吉は、顔色をサッと変える。雲雀はといえばやはり眠たげに目を細めていた。春の日差しは確かに眠気を誘う。
「約束を守らないとは思わないけど、まあ一応ね。彼とは昨日会ったばかりだし」
君が此処に居れば彼は現れるだろう?
と、雲雀は小首を傾げて綱吉を振り返るが、綱吉はうんともすんとも言わず硬直したまま動けなかった。雲雀も綱吉の返事を期待したわけでも無かったので、すぐに綱吉から視線を外す。それから開けた障子の先に見える庭園を眺めた。
「詰まるところ、君は人質だね」
そしてぽつりと、綱吉を人質にしている当人のくせ、まるで人事のように呟く。
その後を追うようにして綱吉の頭上から「ヒトジチ、ヒトジチ」と甲高い声が続き、綱吉はがっくりと肩を落とした。そういえば確かに昨日、リボーンと雲雀は今日戦うようなことを言っていたかもしれない。
鬼の住処で、人を捕食とする鬼とその鬼の餌食とされる人間とは思えぬほど、嫌に長閑な空間を作る彼らを呆れたように鹿威しがカコン、と音を響かせた。