八
多少日が落ちたところで、歩き慣れた道を進むことは綱吉にとって何の苦もない。ほんの少し暗闇に気後れするぐらいだ。しかし今は、その暗闇すら眼中にない。
綱吉は先程から、ちらちらと前を歩く童の姿を頻りに視界に入れる。普段からして不思議な存在として認知し、時に畏敬の念さえ抱かせる童であるが、この時ばかりは綱吉はその後ろ姿に不気味なものを感じずにいられなかった。
綱吉たちは鬼が去った後、倒れたままの村長を母屋に運び込んでから今こうして帰路についている。この道を逆に、重い足を引きずるようにして進んでいったのはそう前のことではないのに、綱吉には数時間も前のことに感じられた。
じりじりじり、と左頬の皮膚が張りつめて鈍い痛みを訴えてくる。腫れるな、これと左頬に手を添えながら漠然と綱吉は考えた。それから、結局そういえば村長の頼みとは何だったのだろう、とそんな事をぼんやりと思う。
「なあ、リボーン」
呼びかける。すると、前を歩く童から短く切り返された。
「なんだ」
「さっきの、どういうこと何だよ。お前、何か知ってんの?」
問い掛けると、リボーンの足が止まった。綱吉も続いて足を止める。
振り返ったリボーンの顔は相変わらず無垢な幼子のものであるに関わらず、醸し出す雰囲気は綱吉を圧倒させる異彩を放っていた。
「知りてぇか?」
思わず、綱吉は固唾を飲んでリボーンを見返した。けれど返事を返す時間はそれほど掛けない。だって、知りたいかどうかなんて決まっている。
「…知りたいよ。だって、知らなきゃ」
村長と鬼は明らかに綱吉の存在を通して話をした。けれど綱吉はその会話の意味を理解することができなかった。理解できるだけの知識が無かった。
知らぬが仏という言葉がある。知らない方が幸せだ、ということがある。たぶん今、綱吉が知ろうとしているコトはきっと、知らない方が幸せだという部類なのだろう。何といっても鬼が関わっているのだ。
「……知らなきゃ、か」
「……………」
「まあ、いいだろう。いずれ知ることになるコトだからな」
そう言って身体ごと振り向いたリボーンは、静かに綱吉に話し始める。
並盛の里には、綱吉たちが住む村と同等の集落が五つ集まってできている。その中心に聳えるのが並盛山だ。そしてその並盛山には鬼が住んでいる。
"彼らは偶に下山しては人を襲い、人を喰らう。その行動は実に巧妙で、喰われた者はまるで神隠しにあったかのように行方を眩ました。"
「各村里の村長が提供してんだ。鬼が注文する通りにな」
要は人身御供、生贄だなと淡々と紡がれるリボーンの言葉に、綱吉は瞠目する。
「な、…なんで…え? 村長が……?」
確かに綱吉は村長である根津を嫌な奴だと思っているが、そんなことをすぐに信じられるほど憎んでいるわけでもない。あいつなら遣りかねない、とは思いたくなかった。けれどそんな綱吉を裏切るように浮かんでくるのは、鬼と村長の会話。
『やあ、村長。昼に伝えた通り、引き取らせて貰いにきたよ』
あの時、村長は、なんて答えた。
あの時、村長は、なんて言った。
『た、確かにそう約束したが』
ぷつりと、綱吉の糸が切れる。
「――なんでっ、何でそんな! …っ…そんな、そんなのって…!」
裏切りだ。酷い裏切りだ。綱吉にはそうとしか考えられない。
村の責任者であるはずの村長が、村を裏切ったのだ。けれどリボーンは悔しそうに唇を噛み締める綱吉を見上げて、その反対のこと言う。
「仕方ねーんだ、村長はそうすることでしか村を守れねぇからな」
「!? な、何言ってるんだよリボーン。あいつが、村を守ってるって!?」
「そうだぞ。生贄を出さなければ鬼が好き勝手に人を襲うだけだからな、下手すりゃ村が無くなるぞ。だから適度に鬼を満足させなきゃならねーんだ」
綱吉は苦い顔で黙ったままリボーンの言葉を聞いた。
リボーンの言う言葉を理解はできるが、納得ができないのだ。つい先程、生贄になりかけた村長の娘を見たから特にかもしれない。彼女は綱吉に助けてと言った。自分から鬼の餌になりたい者はいないだろう。みんな、苦しんで、そして死んだのだ。それを思うだけでやるせない。
大の幸せの前には小の犠牲が必要だと思えるほどに、綱吉は悟れない。
「…だから、鬼の言うがままに人を差し出してるって言うのか? そんなのおか」
「それはちげーぞ。そうならない為にお前がいるんだ」
綱吉の言葉を遮って告げられたリボーンの言葉に、綱吉はきょとんと首を傾げた。
「お、おれ……?」
「というより、沢田の人間だな。今のツナじゃ全然、全く、てんでダメだ」
いきなりダメ出しをくらった綱吉は訳も分からずぐっと落ち込む。リボーンの無表情の顔の中に嗜虐心が垣間見えるような気がして、綱吉はますます項垂れた。
「何が駄目だって言うんだよ…」
「ヒバリが言ってただろ。お前は、今はめちゃくちゃ弱ぇんだ。それじゃ抑え役として意味がない。だから盟約は守られねぇ」
盟約、それは聞き覚えのある言葉だった。
「……と、いうかお前、あの時既に居たのかよ!?」
なら何でもっと早く助けてくれなかったんだ、と詰め寄る綱吉に対して、リボーンは悪びれることもなく言い切る。
「ヒーローは少し遅れて登場するぐらいが丁度良いんだ」
綱吉が脱力したのは、言うまでもない。
そんな綱吉など放って、リボーンは話しを戻した。
「人を食べ過ぎないよう、鬼を抑えるのが沢田の人間の役目なんだぞ。鬼も沢田の人間の言葉には耳を傾けるのが決まり事だ」
だから村長はお前を呼んだんだろう、とリボーンが言う。
沢田の人間である綱吉が娘を食べるなと言えば、鬼が退く。その可能性に村長は賭けたのだ。結果は見事に惨敗に終わったが、それは綱吉が鬼を抑えられるほど強くなかったからだとリボーンは綱吉に告げた。
「鬼の頭領はとにかく戦闘マニアで、強い奴が好きらしいぞ。だから今までは家光と偶に殺し合いをすることで満足していたんだ。花より団子ならぬ、団子より殺し合いってことだな」
「ちょっ、なに物騒なこと言ってんの!?」
不穏な台詞ばかりが飛び交うことに耐えかねて綱吉が遮る。
「だいたい、ウチの親父が鬼と渡りあえるわけないじゃん!」
デタラメ言うなよっと噛み付かんばかりに詰め寄る綱吉をリボーンはあくまで淡々と制した。
「嘘じゃねぇ。あいつは強ぇぞ。その証拠にあいつが居た時は鬼に喰われる人間が少なかったはずだ。家光の親父、つまりツナの祖父さんはあんまり力が無かったらしくてな、結構酷かったらしいぞ」
何が酷いのかは聞かなくてもある程度は察することができた。鬼による人食いの被害が、ということだろう。
そんなことを言われても綱吉が生まれた時には既に今の状態であったので、綱吉はなんとも言えない。けれど年が明けてからというもの、隣村から聞こえてくる行方不明者の数が尋常ではないのは綱吉も解っていた。
もし、リボーンの話すことが本当であったとしたら。
そこまで考えて、綱吉は唇を噛み締める。
「だったら、今、父さんは何をやってるんだよ…っ」
鬼を放って。責任も果たさず。それが恐らくどんな結末を生むか知っておいて。
ぐっと身体の横に付けた手を、綱吉は力の限り握りしめる。
「あいつにはあいつなりの理由があるんだ。あんま責めてやるなよ」
リボーンが普段の彼にしては珍しく優しい言葉を落とした。その声音には綱吉を慰めるような気遣いの色が含まれていたが、だからとって綱吉の気がすぐに紛れるものではない。
それを知ってか、リボーンの声音が普段のものと変わって、言った。
「それに、何でオレがここに居ると思ってるんだ?」
不敵に。ともすれば揶揄するようにも聞こえる声音。
綱吉はリボーンが言わんとすることが解らず、ただ不安げにその大きな瞳を見返した。
「つまりオレは家光が帰ってくるまでの繋ぎってことだ。ここ一年は鬼も大人しかったから、オレも特に何もしなかったがな」
そこで小さく溜息を吐いたリボーンは、呆然としている綱吉を見上げて続けてニヤリと笑う。
「さっき見事に鬼の頭領のハートを盗んでみせたオレの手際を見ただろ?」
「え、ででも……って、え? 頭領?」
「ん? 言わなかったか。さっき居た鬼が並盛山に住む鬼共のボスで、雲雀恭弥っていうらしいぞ」
――言ってねぇぇえええ!!
声にならぬままに綱吉は心で思いきり叫んだ。その叫びが口から出ることは無かったが、綱吉の表情でだいたい察しただろうリボーンが「それは悪かったな」と心にもない声で謝罪する。
「まあそういうわけで、家光が帰るまではオレがヒバリと殺し合いをするから安心していいぞ」
なんて、下手すれば語尾にハートマークが浮かんでいそうなほど無邪気に言いはなったリボーンの言葉に、安心する材料を見つける事ができない綱吉は顔色を悪くした。
「だ、だいたい、お前べつに沢田家じゃないだろ。それでええっと、ほら約束事に差し障りないのかよ?」
今までの話を聞くに、あくまで鬼と相対するのは沢田の人間という感じがした。それを危惧して質問した綱吉に返ってきたリボーンの返事は、全く予想だにしない答え。
「沢田リボーンに改名したからな、全く問題ないぞ」
「語呂わるっ! って、そんなんで平気なの!?」
あまりに安易すぎる方法に綱吉が驚くと、リボーンは考え込むように黙り込んだ。
綱吉は次に返ってくる言葉をごくりと息を呑みながら待つ。そして数秒後に、リボーンが顔を上げて綱吉を見上げた。
「まあぶっちゃけ、ヒバリを満足させるだけの強さがあればいいんだ。それが沢田家に与えられた役割だって話なだけだから、……別にいいんじゃねえの?」
「ぶっちゃけ過ぎるよっ! しかも結局曖昧なままだし!」
「うるせぇな。どのみち、次の沢田家当主はお前なんだ。これからはビシバシ鍛えてやるからな、覚悟しておけ」
後半、不穏な発言を聞いたような気がする綱吉は一瞬固まったあと、えっ?と聞き返した。
「なに腑抜けた面してやがる。言っただろ、沢田の人間が鬼を抑えるんだってな」
言った。確かにリボーンはそう言ったし、綱吉も聞いた。
そこで綱吉は初めてその言葉の意味を実感し、一気に顔を青ざめる。ぶるぶると身体を震わせながら、思い切り首を横に振って拒否る。
「お、俺が戦うの!? あの鬼と!? む、無理に決まってるだろそんなの!」
「うるせぇ。だから鍛えるんだろーが」
しかしリボーンは無情にもそんな綱吉の嘆願をあっさりと切り捨てた。そのままくるりと身体を反転させ、つい先程まで止めていた足を動かして進んでいく。綱吉はその後ろをくっついて歩いた。
脳裏ではあの鬼の姿がリフレインされ、綱吉をさらに恐怖に戦かせる。けれどそれとは別のところで、あの鬼の姿に違和感を覚えていた。
「……なんか、会ったことがあるような…」
口に出して呟いたところで思い出せるはずもなく、綱吉ははっきりとしない記憶に暫くの間身を焦がすこととなった。
投げ出された引き出しの中身が整頓されるまで、今暫く掛かる。
***
気がつけば辺りはすっかり濃い闇の気配に包まれていた。
麓の村の明かりは既に届かず、頭上でぼんやりと青白い月のみが光源となって足下を照らす。
憶測なく地面を蹴ると密閉された空間のように音は大きく跳ね返り、それは暗闇と相俟って圧迫感を感じさせた。さらに人語を話さぬ獣の遠吠えが、一人きりで世界に取り残された錯覚に陥りさせる。
日中とは違う騒がしさを纏う暗闇の空気は、気の弱い者ならば萎縮させるに十分な威力で周りを脅かした。
けれど淀みなく歩を進める雲雀の足に恐怖はない。当然といえば当然で、彼はその暗闇の道には慣れきっている。元々が、古来より鬼を含めた物の怪の類は、根の堅州国――黄泉の国――に住まうイザナミ神の氏族と見なされているのだ。暗闇はその異形な姿を隠してくれる。敵か味方かと問われれば間違いなく味方であり、つまり恐れる要素など全く無いのだ。
雲雀は欠伸を零しながら歩き慣れた、道ならぬ道を進む。長く住んでいれば自然と近道という獣道が見つかるもので、踏み敷かれた草の上を歩いた。
近道を通るとすぐに人工的な明かりが目に入る。
鬱蒼とした木々の間を縫うようにして立てられた砦柵の前に、光源である提灯を掲げた男が一人立っているのが雲雀の視界に入った。
雲雀自身よりもずっとがっしりとした体格をしており、強面の顔でやって来る雲雀の一挙一手を見守っている。それは恰も肉食動物が狩りをする獲物を見定めているようにも見えるが、それは雲雀が近づいたことで杞憂になった。
「お帰りなさいませ」
雲雀を前にして男は実に恭しく頭を下げたからである。
雲雀も、それを当然のようにして受け取って応対した。二人して砦柵を抜け、小さな集落の中に入っていく。
「今日は止めにしたよ」
そうするのが当たり前のように、男は雲雀の足下を照らすために提灯を掲げて前を歩いた。雲雀は自然と目につく大柄な背中を見ながら、突拍子もなく男に向かって告げる。
言葉が足りない雲雀の報告を、しかし男は一息の間を置いて理解したように頷いた。
「そうですか。では私の方から皆に話しておきます」
「うん、そうしといて」
ゆらゆらと揺れる提灯の明かりをぼんやりと見つめながら、欠伸交じりに雲雀は男に答える。
けれどそこで雲雀は目を細めた。そしてゆっくりと辺りを見渡すように首を巡らす。相手を射竦めてしまうほどに鋭い眼光は、提灯の仄かな明かりを受けて獰猛な色を色濃く表した。
ゆっくりとした足取りで前を歩く男を呼び止めて、ぺろりと乾いた唇を舌で濡らしながら先刻の言葉を覆す。
「やっぱり、僕が行くよ」
男はそんな主人の様子を一瞥してから、異を唱える様子もなく首肯した。
「わかりました。明かりはどうされますか」
「いらない」
にべも無く断られたが、男は気にした風もなく了承する。
雲雀は従順に引き下がる男を一瞥してから、もう一度視線だけで辺りを見渡した。今まで何故気付かなかったのかと不思議に思う程に、辺りを充満するのは複数の殺気である。
――いつの間にこんなにも鬼の性が強まっていたのか。
不思議に思いつつも、考えてみればここ二月で十数人の人間を喰らっていたことを思い出して納得する。
雲雀が殺気にも似た異様な興奮状態である鬼達の様子に気が付かなかったのは、彼もまた同じような状態だったからだ。偏に雲雀が平常近くまで戻ったのは赤ん坊という力を発散できる場を得たという、精神的にゆとりを持ったからに過ぎない。
鬼の性は、正しくイザナミ神からの賜物のようなものだ。
遠い昔、禁忌を破ったことを怒ったイザナミ神は逃げるイザナキ神を追って、訣別の言葉を送ったという。その言葉は「地上の人間を一日千人殺す」という恐ろしいものだった。
そして鬼の性とは即ち、破壊衝動。欲望のままに人間を喰い殺す。
これをイザナミ神の賜物と言わず、何と言うか。
そこまでを考えて、けれどどうでもいい事だと思考を投げ出した。雲雀はいつだって自分の欲望を満たすために忠実に行動している。神の意向とやらは関係ないのだ。
鬼達はこの集落の奥、樹木が無く広く開けた場所に集まっていることだろう。本来ならばそこで夕食ということであったわけだが、生憎とその夕食は用意されていない。普段ならば大人しく雲雀の命ずるままの彼らであるが、辺りに漂う殺気からだと温和しく引き下がりはしないはずだ。
それならそれでいい、と雲雀は口元に笑みを乗せながら思う。存分に嬲り殺すだけだ。
明日はあの赤ん坊と戦う予定であることだし、体慣らしぐらいにはなるだろう。
物騒なことを黙々と考える雲雀を背に、男はやはりゆっくりとした足取りで多くの鬼が集まっているはずの広場の前まで進める。鬼達と思われるざわめきが耳に入る距離になったところで歩みを止め、体を横にずらしてから雲雀を振り返った。
刈り取られた集落の中の草と違い、広場までに続く道は麓から集落までの近道のように腰まで届く雑草に覆われている。けれど何人もの鬼が通った後なのか、綺麗に獣道となって一本に道が伸びていた。
その獣道を越えれば、楕円を描いたような広場に到着する。
「お気をつけて」
スイっと雲雀の足がその獣道に向けられるのを見て、男は静かに声を掛けた。
逸らされていた切れ長の視線が男の方を振り向いて笑う。
「誰に向かって言ってるの」
そのまま獣道を踏もうと持ち上がった足は、しかし前に進むことなく同じ地に沈んだ。進むはずの足はそのまま地面に付いたまま動かず、雲雀の視線もまた男の顔をじっと見据えたまま動かない。
男は普段の雲雀らしくないその様子に、強面の面をさらに強張らせた。
「草壁」
落ち着かずに逸らしたくなる視線に男が耐えていると、雲雀から名前を呼ばれ、反射的に背筋を伸ばしてしまう。
「君、随分と落ち着いているね」
見定めされるように頭から足まで視線を寄こされ、雲雀の台詞とは真逆に落ち着かない。神経を張りつめないと貧乏揺るぎしてしまいそうで、男は気が気でない状態だ。
そんな男の様子をやはりじっと見据えながら、雲雀の方こそが落ち着いていると言える無表情で「まさかな」と小さく呟く。
そして興味を失ったようにあっさりと男から視線を外した雲雀は、今度こそ淀みない足取りで踏み敷かれた雑草の上を王者の如く歩き出した。取り残された男は先刻の主の様子を訝しがりながら、けれど数分後に聞こえてくる怒号と阿鼻叫喚に仲間の鬼たちを思って合掌する。