六

 根津銅八郎は組んだ腕を苛々と指で叩いた。とんとんとん、と一定のテンポを保っていたそれは徐々に苛立ちが募るほど早くなる。
 畳張りの座敷に設けられた行灯がほのかな明かりで銅八郎の周りを照らす。和紙によって広げられる行灯の明かりは常ならば気にしない事柄であったが、今日ばかりはその明かりさえ銅八郎を苛立たせる。
 ほんの少し開けた障子の先では、もう少しで日が暮れようとしているところだった。
 朱色は既に西空にのみ存在し、空のほとんどを紺色の帯が占めている。ぼんやりと浮かぶ月の光源が憎々しい。
 銅八郎は立ち上がって、その障子を乱暴に閉めた。大きな音が辺りに響いたがそんなことは構いやしない。
 ――奴め、また遅刻か? くそっ、だから気に喰わんのだ。
 迎えを送るか、または閉じこめておけば良かったかと今更になって歯噛みする。元々が小さな賭けであるとはいえ、賽を投げる前に封じ込められるのでは全く違う。
 とんとんとん、とまた指で腕を打つ。
 そこへ、襖の奥から銅八郎を呼ぶ声が聞こえて彼は何だ、と苛立ちを含めた声で返事を返した。
 すると襖がスッと開き、その先に見慣れた下男が現れる。その下男に浮かぶ表情は常ならぬもの。
「旦那様、お嬢様が――」


 七

 綱吉はぞっと背筋を走る戦慄に既視感を覚えながら、背後を振り返った。
「やあ」
 沈黙する場を壊したのは、耳に心地よく届く穏やかな低音による平凡な挨拶。けれどその声音に安心する者はおらず、綱吉もまたその場の空気に圧せられたかのように後退する。
 綱吉の背後に近づいてきた人物は、昼間見た大柄の男と同様に村では見たことのない顔だった。
 思わず目を惹く切れ長の双眸に、日焼けを感じさせない肌の白さが夕闇の中で映えて見える。黒の着流しの上に縹の長羽織を羽織った姿は華奢であるが、綱吉のように弱々しくは見えなかった。
 何よりも、闇色の髪の隙間から覗く二つの『異物』が、綱吉たちを恐怖に縛る。
「………お、鬼…?」
 かすれた声は禄に音になりはしなかったけれど、それが聞こえたかのように目の前の男の目が細められた。まるで肯定するかのよう。だがわざわざ肯定されるまでもなく、確かに男の姿は言い伝えられてきた鬼の姿をしていた。
 人によく似た形に、特徴的ともいえる額についた牛のそれとよく似た二本の角。けれどどこか、見覚えのある相貌―――。
「…あ、――あ、あああっ…!」
 綱吉がその鬼の姿を凝視しているすぐ後ろで、突如として女が声を張り上げた。
 静寂を瞬時に壊すほどのその声に驚いて、綱吉はそこに鬼がいるのを忘れて久美子の方に半身だけを捻って振り返る。先程までまだ気丈に理性を残していた彼女は、既にそこにはいない。
「イヤ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ! そんなのは、そんなのはイヤだああ、ああいやいやああ嫌だああっ!!」
 髪留めが外れ、結い上げられていた髪が不格好に揺れる。だが久美子は気にした風もなく、ただ嫌々と幼子のように首を振り続ける。
 前髪が落ちて女の表情こそ隠すものの、その狂ったような悲鳴は絶えず綱吉の耳に響いた。思わず耳を塞ぎたくなるような、悲痛な声。その声に宿るものに綱吉には覚えがあった。
 『絶望』。凍えるような恐怖心からくる、黒くて大きな『絶望』だ。
 女の叫びは、己を救ってくれる誰かへとあてた救済の叫びだった。
 そういえば彼女はついさっき自分に助けを求めてはいなかったか、とどこか冷静な部分で綱吉は思う。けれどそれ以上のことはできやしなかった。
 綱吉もまた、混沌した海の中にいる。
 散らばった引き出しの中身は、まだ元に戻らない。
 しかしそんな中で鬼だけが平常のまま少し首を傾げて、髪を振り乱す女を見つめた。それから暫くして、ああ、とその瞳に理解の色が浮かぶ。
「もしかして君が村長の娘?」
 びくり、と女の身体が跳ねるように震えた。
 けれどそんな女の様子になど興味がないかのように、鬼は淡々と、残酷に女を追いつめていく。
「ふうん。わざわざ外で待っていてくれたのかい? それとも、逃げるつもりだった?」
 揶揄するような鬼の言葉に、女の身体がガタガタと音が聞こえてきそうな程に震える。
 鬼の言葉を否定するかのように振られ続ける頭。小さく打ち消すかのごとく、嫌嫌と繰り言が紡がれ続ける女の唇。
 鬼の足が一歩、地面を進む。
「まあ、どっちでも構わないよ」
 くつり、と鬼が笑った。愉快そうに、楽しそうに。
 それは見る者がみれば、心が弾むような美しい笑みだったのかもしれない。けれど。
「どのみち君は、―――咬み殺される」
 綱吉たちにはそれは、狂人の笑みにしか写らなかった。
 地面に根を生やしたように動けないでいる綱吉たちとは対照的に、鬼は一歩、また一歩と近づいてくる。その足取りは迷いなく優美にさえ見え、それがまた二人を恐怖に突きたてる。
 だが、ふと綱吉はその鬼の視線が己には全く向けられていないことに気づいた。眼中に無い綱吉の変わりに、鬼の目はずっと久美子を捕らえている。
 そこでようやく、綱吉は一つのことだけを理解した。それは混乱していない頭であったら、簡単に辿り着けただろう答え。
 ――『彼らは偶に下山しては人を襲い、人を喰らう』
 ――鬼は彼女を喰いに山を下り、彼女は鬼から逃れるべく綱吉に助けを求めた。
 なぜ久美子が鬼に狙われてしまったのか、なぜ久美子が綱吉に助けを求めてきたのかも未だ解らないが、その事実だけは確かだった。
 そう思ったら、身体が動いていた。
 綱吉の身体が鬼と久美子との間に入り込む。まるで邪魔をするかのような、そんな立ち位置に佇む綱吉へ初めて鬼の視線が向けられた。眉をひそめられる。
「何、君?」
 一転して不機嫌そうな口振りに、綱吉はびくりと身体を震わせた。それを期に、身体のあちこちが小刻みに震え始める。
 ああ、ほんとに、俺は何をやっているんだろうかとよく回らない頭の中で綱吉は考える。
 この行動に意味があるものとは思えない。無意味どころか、不利益なことばかりだ。鬼の注意を引く事となったし、もしかしたら久美子より先に自分が食べられてしまう可能性だってある。だのに、逃げようとしないこの身体が本当に憎々しい。
 けれど目の前で殺されるとわかっている人を放って置くことは、何故か綱吉にはできなかった。その人が、親しくないとはいえ幼い頃からの知り合いならば尚更に。
 及び腰になりながら、綱吉は目の前の鬼と向かい合う。
「あ、あ…の…やめてください…っ」
 精一杯に張り上げた声は掠れた上に上擦って、迫力などありはしなかった。更に言うならば顔は血の気が引いて青ざめているし、ガクガクと笑う膝のせいで格好もつかない。
 そんな情けない姿の綱吉を一瞥してから、鬼がさも当然の質問と言わんばかりに短く切り返してきた。
「なにを?」
「あの、だから…その…」
 綱吉はまともに動かない口でしどろもどろに言葉を探す。
 久美子は綱吉の後ろで変わらず震えているようだったが、いつの間にか綱吉の帯から出た着物の先を掴んでいるようだった。これではまるで綱吉が盾のようだ。ちょっとずるい。
 そんなことを少し思いながら、綱吉が変わらず的を得ない言葉を繰り返していると、目の前の鬼の視線がふっと逸れた。何だと思って鬼の視線を追うと、視線の先は門の中へ。そしてそこで見知った姿を見つけ、綱吉は思わず小さく声を漏らしていた。
 けれどその人は綱吉のことなど見えていないようである。ただ、綱吉の背にいる、
「――久美子っ」
 自らの娘へと。
 慌てて駆け寄ってきた村長の姿からは、綱吉がいつも見る余裕など見えやしない。
 村長は自分の娘を綱吉の背から剥がすようにして引き寄せた。そして娘の無事を確かめてから、やっとそこに鬼がいることに気がついて身体を強張らせる。
「お前は……」
「やあ、村長。昼に伝えた通り、引き取らせて貰いにきたよ」
 それ、渡してくれる?
 鬼が根津に向き合って言い放つ。またしても蚊帳の外となってしまった綱吉は、今度は何もできずに見守る形になってしまった。けれど、その綱吉を何故か村長が一瞥し、それから鬼に目線を合わせる。
「た、確かにそう約束したが…少し待ってくれないかね」
 そう言った村長の腰はやはり少し引け気味で、視線の先も定まらず忙しなかったが、多少の大人の理性を垣間見せた。
 そしてそう言った直後に、村長が何か意図を持った目で綱吉の方を見るが綱吉にはわけがわからない。
 だがそうして村長の意図を察しようとしているうちに、何故か村長が綱吉を鬼に対して紹介した。
「ああそうそう、彼は沢田綱吉という。…その、沢田家光の息子だよ」
 しかし紹介というには余りにも大雑把すぎる。けれどそれで十分だという含みが、村長からはした。そしてそれは確かに、それだけで十分だったらしい。
 鬼が村長から綱吉へと視線をよこして、何かを理解したように
「ああ、君が…」
 と呟いたから。
 綱吉には相変わらず何が何だかよくわからない。けれど村長はその鬼の呟きを聞いて、確かに顔を喜色させた。何かに希望を抱いたように。
 だがそれは早々に破られた。綱吉から村長へと顔を戻した鬼によって。
「それで?」
 絶句する村長と向かい合いながら、鬼が抑揚のない声音で淡々と言葉を綴る。
「彼があいつの息子だったとして、それが何? 僕と何か関係があるの?」
 綴られる言葉を始め、村長は絶句したまま聞いていた。しかしその最後の鬼の言葉に、村長は顔色を変える。青から、朱へと。
 娘をその背に隠しながら、今度はしっかりと背筋を伸ばした。そうして初めて、鬼よりも村長の身長の方が高いことに気づく。
「関係は、あるじゃないか。そいつは沢田家の人間なんだぞ、盟約はどうした!?」
「……………」
「貴様らは既に今年に入って十人以上もの人間を喰っているんじゃないか? それは、盟約に反することじゃないのかね!?」
 その場で高々と声を張り上げる村長の言葉を理解する者は、おそらく鬼だけだったのだろう。当事者として上げられている綱吉も、村長の背に隠されている久美子も彼の言葉に困惑している。
 しかし村長は自分で言った言葉に自信をつけたらしく、顔に笑みを浮かべさえした。鬼はといえば、その村長の顔を無表情で眺めている。それから目線は動かさずに視線だけを動かして、綱吉を一瞥してきた。
 そして、風が――吹く。
「――がっ、はあ…っ」
 綱吉はびゅんっと風が吹く音を聞いたと思った瞬間に、地面へと薙ぎ倒された。ガンっと肩に思い切り地面がぶつけられ身体が弾む。それでも勢いは止まらず、綱吉の身体は捩れるようにして数メートル先の畑へと突っ込んでいった。
 止まった先で綱吉は蹲り、暫く全身を打ち付けた為に痛む身体を抱きしめる。そして痛む箇所の中でも一層痛むのが左頬だとわかり、漸くそこを殴られたのだと理解した。
 綱吉はなんとかして上体だけを起こして、元居た場所を振り返る。そこには旋棍と呼ばれる、冷たい鈍器を両手に握る鬼の姿があった。
 あれで殴られたのか、と綱吉は他人事のように思う。まるで見えなかった。
 鬼は綱吉を理不尽に殴り飛ばしたことなど何でもない事だったかのように、淡々と村長に向かって言葉を紡ぐ。
「あなたは、どうやら何か勘違いをしているようだね」
「…か、勘違いだと?」
「そう。あなたは彼に何か希望めいたものを抱いていたみたいだけど、そんなものは有りはしないよ」
「だ、だが盟約は…っ」
 突然の鬼の暴挙に目を見開いたまま、村長は顔色悪く縋るように言葉を口に乗せる。
 村長の方へと足を向けて、鬼がうっすらと微笑んだ。
「さっきの攻撃を受け流すこともできない奴は、沢田の人間だろうと盟約に値しないということさ」
 そういって、鬼は構えた武器を振るう。ひゅっと風を切る音だけが聞こえ、その武器の軌道を見ることも適わず村長もまた綱吉と同様に打ち倒された。
「お父さん!」
 地面に蹲る村長の元へ、女が悲鳴を上げて駆け寄る。苦痛に歪められた顔で呻く村長は目を開く様子はないが、ぴくぴくと痙攣する身体から彼が無事だということを伝えられた。
 ほっと女が息を吐くその前に、鬼が残酷な宣言を女に告げる。
「残りは君だけだ」
 鬼の前に残されたのは娘一人。
「どうする? 大人しくしているなら、もう少し生かしておいてもいいけど」
 でも君、煩そうだね。
 何の感慨も湧かない瞳で、あくまで淡々と。
「やっぱり、殺してしまおう」
 そして冷たい武器をまた、振るう。
「!」
「――うわあっ……あ痛っ!」
 しかしその武器が肉を打つことはなく、ただ空を切る音だけに留まった。その後に続くのはドスン、と人の身体が地面に倒れる音。けれどその音に鋭さは感じられない。
 鬼は空を切った場所よりも更に下へと、視線を下ろした。そこには折り重なるように倒れる二人の人間。
「…さ、沢田…」
 下敷きとなっている女が目を見開いて、己の上に被さるようにしている者を見上げた。
「あたたた……ああ、良かった。生きてる」
 慌てて身体の上半身を起きあがらせた綱吉は、押し倒した時に打ち付けた身体の傷に顔を顰めた。そして自分の下にいる久美子とまた自分の姿を見てから、ほっと安堵の息を吐く。
 咄嗟の行動だった。鬼が腕を振り上げるよりも先に駆けつけて、久美子の身体ごと地面に押し倒した。それが幸を成した。
 ほっと安堵をつく綱吉とは異なり、彼らの上に鬼の抑揚のない声が降り注ぐ。
「なんのつもり?」
 抑揚のない声とは裏腹に、鬼の眉はしっかりと顰められて綱吉を見据えていた。
 綱吉は地面に膝をついたまま鬼を見上げる。女は綱吉の下から抜け出して、そっと後退してから鬼と綱吉の顔を交互に見比べた。
「……やめてって、言いました」
 何を言おうか迷っているような、困惑している表情で綱吉は唇を噛みながら言う。
「何で人を食べようとするんですか?」
 そして滑稽な言葉を口にした。
「餌を餌として食べようとするのに理由が必要?」
 鬼にとって人間はあくまで食糧であり、それ以上でもそれ以下でもない。
 そんなことも知らないの、とでも言いそうな雰囲気で鬼が綱吉を見下ろす。そして何も言わなくなった綱吉に小さく息を吐き出して、億劫そうに口を開いた。
「わかったら退いてくれない? 邪魔なんだよね。草食動物は草食動物らしく、別の獲物に僕が食らい付いている間に逃げればいいだろう」
「………嫌だ」
「?」
「嫌だ、退かない」
 ゆっくりと立ち上がって、鬼の目を真っ直ぐに見つめる。
 はっきりとした拒絶に、鬼の目が剣呑に吊り上がった。
「頭の悪い草食動物だね」
「人間だから。草食動物なんかじゃない。だから、知り合いを見殺しになんかできないっ…!」
 勢いのまま、声を張り上げる。まるで自分を奮い立たせるように。
 嘘だ、と心が騒ぐ。
 草食動物だろうと、人間だろうと関係ない。自分は今すぐに逃げることができる。鬼の言うとおり、彼の注意が久美子に向かっている間に逃げられた。そしてたぶん、まだ間に合う。
 ほら、退け! 退けよ、俺の足! 後ろの女を鬼に差し出して、逃げるのだ。禄に親しくもない、むしろ優しくされるどころか嫌な思い出しか浮かばない、そんな女を庇う必要なんてないだろ!
「…君が退かないなら、僕は君を殺して、次にその女を咬み殺せばいいだけの話だよ。君は抵抗をするかもしれないけど、そんなのは関係ない」
 鬼がまるで言い聞かせるかのように、頑なになっている綱吉の上へと言葉を降り注ぐ。
「君は弱い。僕を殺すどころか止めることさえできやしない」
 くつり、と鬼が笑った。
「ねえ、それで死んだら犬死にって言うんだろう?」
 綱吉は、ぎゅっと目蓋を瞑る。表面だけは穏やかに耳に心地よいその低音は、まるで蜜のように甘い響きを持って綱吉の心をより騒がした。
 鬼の言葉は、どこまでも正しい。
 犬死に、そう、犬死にだ。ここで綱吉が懸命に女を庇っても結局は、女は鬼によって殺される。そして綱吉も殺される。村に二体の死体が積み上げられるだけだ。いや、死体が残れば良い方なのだろう。跡形もなく食べられて、行方不明者の仲間入りをしてしまうのが関の山だ。
 いいじゃないか、もう、女を置いて逃げよう。そんな考えが綱吉の脳裏をよぎる。
 だってもう俺にできることは充分やったよ、これ以上のことは何もできない。もう、いいだろう。可哀想だけど、仕方ないじゃないか。きっとこうなる運命だったんだよ。それに元はといえば村長が悪いんじゃないか。自分の娘を、鬼に渡す約束なんてするんだから。そうだ、一番悪いのは村長じゃないか。だから決して、俺が悪いわけじゃない。俺が見捨てたわけじゃ……
「――嫌だ」
 俺が見捨てるわけじゃない。俺が見殺しにするんじゃない。俺が悪いわけじゃない。そう、仕方ないことだったんだ。
「――嫌だ」
 ああ糞、こんな時にダメダメを発揮するなよ。足が竦んで動けないのか? ほら、動け。動けよ、俺の足! そして此処から逃げるんだ!
「嫌だ!! ……絶対、退かない」
 馬鹿じゃないのか、と瞬時に脳裏で罵倒される。だけど綱吉は鬼の前から退かない。
 ああ、そうかもしれない。自分は本当に馬鹿なのかもしれない。けれど、理屈ではないのだ、これは。これは、感情だ。どうしようもない、愚かな感情だ。
 綱吉は目蓋を開けて、目の前の鬼を見上げる。綱吉の言葉を静かに聞いていた鬼は、同じように静かに、そして何の感慨もなく淡々と告げた。
「そう、じゃあさようなら」
 告げられた言葉は優しくも、冷たい別れの言葉。
 びゅんっと空気が切れる音がする。
 綱吉は思わず襲い来る痛みを思って身を竦め、恐怖に堪えきれず目を閉じた。
「……?」
 だが襲いくる痛みはいつになっても訪れず、代わりにキィン、と甲高い金属音が擦れる音が辺りに響く。綱吉は恐る恐ると及び腰になった体勢で、瞑った目蓋を開けた。
 開けた視界で見たもの、それに一瞬状況も忘れて、綱吉は目をさらに見開く。
「そこまでだぞ」
「!?」
「り、リボーン!?」
 いつの間にか綱吉の肩に腰掛け、握った十手で鬼の攻撃を受け止めている童子という有り得ない状況に、綱吉はさらに混乱する。
「なっ、なん、何で!?」
「ツナの帰りが遅いからママンが心配してな。俺が迎えに来たんだぞ、感謝しろよ」
 諸々の意味を込めて聞いた綱吉に、相変わらずの返事が返ってきた。
(母さん、赤ん坊に頼むなよ! って、いやいやそーじゃなくて)
 ――衝撃が、無かった。
 鬼の攻撃がどれほど強い衝撃を放つかは、綱吉自身の身体で受けたので十分にわかっている。リボーンがその攻撃を受け止めたとしても、そのリボーンの足となっている綱吉には衝撃が届くはずであるのに、それが全く無かった。
 素人でもわかる。鬼の攻撃を受け止めたことといい、それだけリボーンの強さが突出しているのだ。
(どれだけ最強なんだ、この赤ん坊!?)
 思わず青ざめる綱吉である。
 しかしそのリボーンの強さに興味を抱いたのは綱吉だけではなかったらしい。思わず畏怖を抱く綱吉とは対称的な感情であるが。
「ワオ。素晴らしいね、君」
 リボーンの持つ十手と武器を絡ませたまま、鬼が機嫌良さげに言った。リボーンもまたその鬼と視線を合わせてニッと笑う。
「おまえがヒバリだな。話は家光から聞いてるぞ」
「――なっ!?」
 ふうん、そう。と極めて反応の薄い鬼に変わり、綱吉が目一杯に驚いてリボーンを振り返った。しかしどういうこと何だと尋ねる前にそれは遮られる。
「オレはリボーンだ。とりあえずヒバリ、今日は退いてくれねーか」
「いやだ」
 間髪入らずに返ってきた返事は、リボーンの提案を素気なく断るものだった。
 鬼はスッとリボーンの十手から武器を引き、自分の腕から肘を覆うようにして構える。夕闇に溶け込むような二対の双眸は今、爛々と輝いており、溶け込むどころか浮いて見えた。
 けれど先程までの、鬼特有の不気味さや嫌な感じはしない。まるで玩具を前にした子供のような――そんな違和感に綱吉は陥る。
 そんな鬼の様子に、リボーンはまたしても笑う。
「オレと戦いてぇだけか? 女はいらねぇのか?」
「どうでもいいよ。もう興味ない」
「え、えぇぇえええ!?」
 至極あっさりと切り捨てられた鬼の言葉に、綱吉が大仰に反応した。
 肩に座るリボーンからは「うるせぇぞ」と言われ、鬼からも「なに?」と訝しげに見つめられるので綱吉としては堪ったものじゃない。
「え、…だ、だってさっきまであんなに……」
 固執していたではないか。咬み殺すとか喰うとか、それで綱吉は犬死にとかそれでも退かないとか、いろいろ葛藤までしたというのに!
 あれ何、俺がおかしいの? 気にする俺がおかしいの!?
 と、心の中では盛大に叫ぶ綱吉であるが、声になったのは言葉として意味を持たない文字の羅列にすぎなかった。現状についていけず混乱する綱吉を置いて、リボーンが鬼と話しをつける。
「ならやっぱり今日は退いてくれねーか。あんまり遅いとママンが心配するからな」
「僕には関係ないよ」
 当然といえば当然の鬼の返事に、リボーンがくつくつと笑う。
「明日、相手をしてやる。今日はダメだぞ」
 そうはっきりと告げるリボーンを、鬼が真っ直ぐ見つめた。そうして暫くしてから、本当に全く相手に戦う気が無いのを察したのだろう。
 小さく息を吐いて、武器の構えを解いて言う。
「…仕方ないね。今日は帰るよ」
 そう言うなり、鬼は手に握った武器を綱吉には見えない早さで仕舞い込み、さっさと身を翻して行ってしまう。夕闇の中に縹色の長羽織が溶けて見えなくなるのに、そう時間は掛からなかった。
 あまりの呆気なさに、綱吉はついていけない。
 しかし呆然としている綱吉をよそに、リボーンは高さなど気にした風もなく綱吉の肩から飛び降りた。そして体勢を崩すことなく綺麗に着地する。
 飛び降りた時にずれた頭巾を直しながら、リボーンは綱吉の背後で同じように呆然としている女に近づいた。そして童特有の高い声で呼びかける。
「おい、聞いてたか。多分もう暫くの間は喰われることはねーと思うから安心しろ」
 そこで初めて、女の視線がリボーンへと移った。
「……あ、あなた…何なの…? 今の、どういうことなの…?」
 女の言葉は綱吉の代弁でもあった。
 けれど困惑に揺れた女の瞳はさらに綱吉にも向けられ、震える唇から絞り出される声の答えを今の綱吉は持たない。
「あなたもよ。……なんなの、何なの貴方たち…ほ、本当に鬼と、繋がっているの…?」
 答えられない綱吉の変わりに答えたのは、まだ幼い、幼すぎる声音をした者。彼は頭巾を目深に被り、外見とは不似合いな達観した声で告げる。
「それは直に父親から聞いたらどうだ? …まあ、正直に話すかはわからねぇけどな」


← Back / Top / Next →