三

 呼ぶな! と、幼子が叫んだ。
 その名で呼ぶな! と、吼えるように叫んだ。
 けれど周りはそんな幼子を見て、さらに囃し立てる者ばかり。ぽろぽろと幼子の頬を伝うは、大粒の涙。その瞳に映るは、憤怒の炎。己を揶揄する者への、また彼らを改めさせることのできぬ不甲斐ない己自身への。
 揶揄する声は消えず、幼子はただただ泣き叫ぶのみ。どうして解ってくれないんだ、と。自分は、そんな名前じゃない、とただ泣き叫ぶ。
 けれどやはり、揶揄する声はそんな幼子の声など聞いてはいない。だが、囃し立てる声の中から、一人の女が幼子の前に立った。
 女は言った。

「並盛山の山吹の花を摘んできて。そうしたら、認めてあげる」

 ***

 まるでその男を歓迎するように、生まれたての若葉たちがサラサラと揺れ音を奏でる。
 暫く前までは、その枝に揺れる葉は一枚とてあり得なかった。揺れ音も乾いた音しか立てず、風にされるがまま吹き荒れる枯葉を見るだけで男は一種寂しさを感じていたものである。それが今では新緑に溢れ、そっとした風では飛ばされなくなった若葉は力に満ちていた。夏になれば更に葉は伸び、空を覆い隠すほどとなるだろう。
 その日を思って、鈍色の十徳姿をした男は聳え立つ木々の若葉を見やる。それからジャリ、と草履の裏で平らとは言い難い道を踏みしめた。
 やがて目的の地へ帰り着いた男は思わず、と小さく息を吐く。それは安堵のものか、また安堵のものだとしたら何に対しての安堵か。しかし男はそんな事は気にもとめず更に目的の場所へと歩を進めた。
 男が帰り着いた場所は、小さな集落だ。ぽつんぽつんと建つ民家。山の景色に溶け込むように、その村はひっそりと存在した。
 男の帰りに気づいた村人が、それぞれに会釈しては自分の作業に戻っていく。話しかけてくる者もいたが、男はすぐに会話を切った。
 そして男は自らの主が住む屋形の門を潜る。終着点はそこだ。男はそのままただ一直線にとある場所を目指す。
 まだ日の高い今の時刻なら、男の主が居る場所は限られる。だが気まぐれな主のこと、外に散歩に出かけている場合もあるが。しかし今は自分の帰りを待っているはずだ、とあまり確証のない思いに縋って男はとある一カ所を目指した。
「失礼します」
 膝をついた格好ですっかり身に付いてしまった言葉を口に乗せてから、男は目の前の襖の戸をなるべく音を立てぬように開く。
「――遅かったね」
「…は、申し訳ありません」
 男の願う通り、主はいた。
 男のいる場所と対向する障子を左右に開いた先の、日差しの良く当たる縁側に右足を立て掛けながら腰を下ろして庭園を眺めている。座敷に入ってきた男に目もくれず。
 黒の着流しの上には縹色の長羽織が、袖を通されずに申し訳ない程度に肩に掛けられていた。その格好は男が最後に見た時と寸分と違わない。
 男は開けた時同様に静かに襖を閉め、その屋形の主人から一定の距離を置くために入った入り口から動くことなく、その場に正座した。そして主人の背を見つめる。
「それで、何だって?」
 淡々とした声が男に掛けられた。その問いかけを最初から解っていたように、男は淀みなく口を開く。
「多少の動揺は見受けられましたが、ご承諾致しました」
「…そう」
 小さく返事が応えられた。その、ふっと主人の声に乗せられた笑みに、男は無意識に眉をひそめる。
 機嫌が良いのだろうか。それとも……
 その男の思考を遮るように、主からぽつりと言葉を投げかけられた。男ははっと条件反射で背筋を伸ばす。
「女を食べるのは久しぶりだね」
「……皆も浮き足立っている模様です」
「ふうん。…一人だけじゃ、禄に食べられやしないけど」
「それでも、女の肉は極上ですから」
 そう、極上だ。浮世のどんなものも女の肉には敵わない。それは、麻薬のような魅力だ。
 だからこそ、男は危惧する。
 男は顔の表情を動かさず、だが心中はぽっかりと空いた腹に不安を抱きながら、縁側に腰掛ける主人を見つめた。しかし男には主人の心中を察することは適わない。
 その主の視線がふと上にあがったのを見てとり、男も何気なくその視線を追った。すると春日を受けながら、小さい黄色の固まりが主人を目掛けて落ちてくる。その固まりに覚えのある男は、思わず心中にて小さくため息をついた。しかし主人の方はといえば、その落ちてくる固まりに向かって手を差し伸べている。
 黄色い固まりの正体は、鳥だ。
 元々は随分と昔に差し向けられた『討伐隊』というものの中にいた人間が飼っていた鳥である。それが彼の主に懐いたらしく、それからというもの気紛れに羽を休みに来ていた。
 しかし鳥の寿命が如何なるものか男は詳しくは知らないが、あまりに長い間を途切れることなく現れるその鳥をもしや物の怪の類ではないかとさえ疑っている。もしくは知らぬうちに巣でも作り、繁殖しているのかもしれない。そちらの方が現実的であるが、男は何故だか物の怪説も棄てられずにいた。
 鳥は素直に差し伸べられるままに主の指先に足を止め、羽を休める。そしてどこからか覚えてきたのか、どこか調子の外れた音程で甲高く唄を歌い始めた。物静かな屋形の中では、調子外れの鳥の唄が響き渡るさまは酷く滑稽に映る。
 主が物静かに鳥の声に耳を傾ける中、男も同じようにした。鳥の声は調子外れであるが、音程も付いた上にそこらの物まね上手の鸚鵡よりも言葉が聞き取りやすい。頭の良い鳥である。
 一通り鳥の独唱が終わり、主が独唱者を讃えるようにその小さな頭を指の腹で撫でた。それに満足したのか、鳥は来たとき同様にパサリと羽を広げ気紛れに去っていく。
 青い空に、黄色い鳥の身体はよく映える。
 まるで魅入るように、男の視線は鳥を追っていった。
「ねえ」
 唐突に声をかけられ、男は慌てて返事を返した。視線を見えなくなった鳥から主へと戻す。
「あの人はまだ帰ってきていないの?」
「…その様です」
「そう、退屈だね」
 ふわあと欠伸をする姿は正に言葉通りを表しているように見えた。事実、その通りなのだろうが。
 縁側に立て掛けていた足に力を入れて、主が立ち上がる。主の体重をかけられた板敷が小さくミシ、と細い音を立てた。
 そのまま座敷に入ってきた主を見つめながら、男は一つあることを思い出した。そして何かを思う前に、そのまま思いついたままに言葉が口を突いて出る。
「ですが、その御子息ならお見掛けしました」
 その言葉が知らず口を出てから、男は慌てた。自然と身体に力が入り、強面の顔がさらに強張る。
 今の報告は、必要ないことだ。もしその子息が頑強で見るからに強者のようであったら、そうでは無かったが。麓で見かけた子息はあの年代の男としても華奢で頼りなく、眼に宿る色は草食動物のそれと似ているように男には思えた。そんな少年が男の主の退屈を紛らわす相手になる事などあろうはずもない。
「息子?」
 しかし予想に反し、主はこちらに向ける足を止めて小さく小首を傾げた。
 それはどこか何かを思い出すような仕草に見え、男は驚きを持って主を見上げる。そして数秒の間を置いて、主は傾げた首を元に戻した。
「ああ、そういえばそんなのがいたかもね」
 淡々と。ただ事実を肯定しただけと言わんばかりの声音。
 畳の上を主が裸足で進んでくるのを、男はより身体を堅くして見守った。黒曜石のような深い闇色をした双眸だけは退屈げに残したまま、主は薄い唇の端を上げて笑みを浮かべる。
「それで? あの男の息子がどうかした?」
「……いえ、ですから、お見掛けしたことを」
 男がまごつきながら口を開く。
 その次の瞬間――それは躊躇なく、唐突に、そして無情に行われた。
「――ぐぅっ!」
 ガン、と重く響いた音に続くようにして男の身体が勢いよく吹き飛び、屏風を倒して畳の上に転がる。
 骨が軋む音が男の中で響き、油断しては叫びだしてしまいそうな痛みに男は歯を食いしばった。そして痛む肩を力の限り抱きかきながら男はゆっくりと起きあがり、先程より遠く空いてしまった距離を見つめ、次に主を見据えた。
 主の右手には旋棍と呼ばれる、肘から先の腕を覆うほどの長さをした棒が握られている。普通は二つ一組で左右に持って扱われるものだが、今は右手にしか持たれていない。
 攻防両方に優れたその鈍器によって、男は右肩を殴られたのだ。刀のように斬れず鋭い痛みは感じないが、身体の中から壊されていくような暗く鈍い痛みが生まれる。どちらにしろ、技術が磨かれている者に与えられる痛みは刀だろうと旋棍だろうと変わりはないのだ。
 男が痛みにひたすら耐える中で、主は右手首を返し、旋棍を着物の袖へと仕舞い込む。その動作は手慣れたもので、男にはその動作を視覚に捕らえることもできずにいた。それほど主の動きは速い。
 明らかに男とでは格が違うのだ。
 主はつまらなそうに、男を見下ろす。その瞳に浮かぶものは先程までと何一つ変わらない。
「くだらない報告はしないでくれる」
 そう吐き捨てるように言って主は男から目を離し、身を翻した。縹色の長羽織がひらりと宙を舞う。
「…少し、寝る。何か用事ができたら起こして」
 言うだけ言って、主は男を残したままその座敷を出て行った。
 男は痛む肩を抱え込みながら、もう姿が見えなくなったはずの主に向かって叩頭する。御意、と誰にも聞こえぬ返事を持って。


 四

 ああ、嫌だ――嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!!
 何でこんなことに。何でこんなことに。ああ、嫌だ。嫌だ。
 突然の、不審な客人に興味なんて抱かなければ良かった。襖一枚を隔てた奥の会話など聞かなければ良かった。そうすれば今も何事もなく何も知らず過ごすことができたのに! 恐怖を味わうのは一瞬で済んだはずなのに!!
 ああ、ちがう。そんなのは嫌だ。
 そもそもが、おかしい。何で私。何で私が。どうして私が。他にも人は沢山いるというのに!
 嫌だどうして。何で。おかしい。変だ変だ変だ変だ変だ!!
 やめて。
 嫌だ。
 そんなの、おかしい。
 ああ、誰か。誰か。誰か助けて。


 五

「ああ、気が重い…」
 鬱々と吐き出す息は言葉通りに重い。
 照り突くような夕空を終え、今は朱色に交じり濃い藍色の帯が東から西へと伸びて赤と紺のコントラストを見せている。年が明け、二月ほど経った今では随分と日永となった。冬の肌を刺すような寒さも感じない。春麗らかとはよく言ったものだ。
 しかしそんな季節の変わり目に感慨を抱いえるほど、今の綱吉の心は平穏でない。綱吉はまるで昼時を再現しているかのように、同じ道を、同じ速度で歩いていた。
「何で一日に二度も、村長の家に行かないとならないんだ」
 しかも。
「頼みって何? あの村長が俺に頼み? うう、どのみち良い予感はしない」
 神様、そんなに俺が嫌いなんですか。そりゃ俺はダメダメですけど、言ってくれれば俺なりに嫌な所を直すよう努力しますから。まじで勘弁して下さい。
 と、そんな恨み言ならぬ切実な訴えを延々と繰り返すうちに、綱吉の足は着実に地獄の門出へと向かっていく。
 沢田家のものより一段立派な住居。それが見えてくるなり、綱吉の気分は更に堕ちていった。何といっても、どんな無茶苦茶な頼み事をされるのか全くもって見当がつかない。
 綱吉は威圧的にさえ見える門構えを見上げて、はあ、とまた深く重い息を吐き出した。
「……帰りたい」
 とは言っても本当に帰るわけにもいかず、綱吉は立ち往生する。思い切りの良さが綱吉に備わっていたならば、彼の人生もまた変わっていたはずだ。現実は門の真正面に立ち、ただ綱吉の家よりも幾分か立派な住宅を眺めるだけだ。
 しかしいつまでもそうしている訳にもいかず、綱吉はのろのろと門の敷居を潜ろうとした。けれどその瞬間にジャリ、と自分のものではない足音が聞こえ、思わず身を竦めてしまう。綱吉は恐る恐る視線を上げて、その足音の主を見た。
「沢田…綱吉…?」
 足音は綱吉の前方、村長の家の敷地内からだ。つまり少なくとも村長と関わりのある人物となる。そして事実、綱吉はその足音の主を知っていた。
 根津久美子。根津銅八郎の娘であり、綱吉より三つか四つ年上の女性だ。
 親しく付き合ったことはないが、綱吉が村長から目を付けられている為に何度か顔合わせをしたことがある。けれどいつもは禄に会話もせず、むしろ視線が合うとスッと反らされてきた。しかし今は不思議なものを見るように綱吉をジッと見据えてくる。
 その真っ直ぐな視線に綱吉は居心地の悪さを感じた。
「あなた、何故ここにいるの?」
 綱吉の心情を知らず、久美子はジッと視線を外さないままに問う。
 何故かその声は綱吉がここにいることを咎めているようにさえ聞こえた。
「えっと、あの、今日また来いって言われて…」
 綱吉は困惑しながらもしどろもどろに言葉を返す。けれど久美子の視線はやはり外れず、むしろ目元の険が先程よりも酷くなったような気さえして、綱吉はより困惑する。
 何だというのだろうか。もしかして質問の意図を読み間違えてしまったのか。彼女は村長から綱吉が来ることを聞いていて、案に来るのが遅いと言っているのかもしれない。『何故ここにいるの』というのは、『何故、未だここにいるの』という意味だったのかもしれない。けれど村長は"完全に日が暮れるまでに"と言ったのだ。まだ日は完全には暮れていないので、文句を言われる筋合いはない。
 そこまで考えてから綱吉は薄暗くある空を少し見上げて、屁理屈だけど、と心に付け足した。しかしその綱吉の心配は杞憂に終わる。久美子が的確な一言を口にしたからだ。
「父に?」
「あ、うん」
 肯く綱吉を見て、彼女の興味は削がれたらしい。迷いのない足取りで門の敷居を越え、さらに綱吉の横を通り過ぎようとする。綱吉は咄嗟に問い掛けた。
「あの、どこか出掛けるんですか?」
 ピタリと足が止まる。
「もう日も暮れるし、危なくないですか。とくに最近は…行方不明になってる人が多いみたいだし…」
 行方不明。それが何を指すのか、並盛の人間ならば思い浮かべるのは常に最悪な結末だ。
 それは綱吉も久美子も変わらずのはずだが、彼女は何故か大仰に振り返って綱吉を見据える。彼女の顔は、甚く不思議な表情をしていた。極端に言うならば相反する感情がせめぎ合っているような。
「あなた、本当に何故、今ここにいるの?」
 しかし彼女から返ってきた言葉は先程までの綱吉の言葉を無視したもので、また最初に聞いてきたことを綱吉に問う。
「だから、村長に呼ばれて…」
「……なぜ呼ばれたの?」
「ええと。頼みたいことがあるとか、言ってましたけど…」
 困惑しながら綱吉が答えていくと彼女の瞳が揺れた。彼女自身も綱吉と同様に困惑しているようで、さらに質問が飛ぶ。
「頼みたいことって、何なの…?」
「知りません」
「本当に?」
 嘘は許さない、と言わんばかりに鋭い眼光を向けられる。けれどそんなことを言われても綱吉は本当に知らないのでどうしようもない。
 こくんと首を縦に頷くと、彼女は視線を綱吉からずらして黙り込んだ。
「あの、どうか」
「……………並盛山」
 どうかしたんですか、と言おうとした綱吉の言葉を切った単語は、恐怖の意味を持つ禁句の言葉。
 固唾をのんで久美子を見れば、彼女の顔は思わず綱吉が瞠目するほどに血の気が失せていた。けれど揺れた瞳は今、強い光を持ってギラギラと輝いている。
 その瞳が綱吉を捕らえて離さず、彼女は淡々と言葉を紡いでいった。
「あなた、昔…並盛山に入ったでしょう。山吹の花を摘みに」
 覚えてる? と、久美子は小首を傾げて綱吉に問う。綱吉は答えず、彼女を見返した。
「あなたは"ダメツナ"と呼ばれたくないが為に、御山の危険も知らずに一人で入っていった。あなたが居ないって知った時は驚いたし、怖くなったわ…まあ、私が嗾けたわけだけど。本当に御山に入るなんて、とね」
 少し自嘲気味に笑った久美子を見据えながら、綱吉も曖昧な記憶の渦を辿る。
 確かそれは、綱吉が五つか六つの頃だ。今以上に己の感情に忠実だった幼い頃。自分を蔑む渾名に納得できなくて、がむしゃらに抵抗をして泣き叫んでいた。そしてその衝動のままに並盛山へと入っていったのだ。
「私は父に話したわ。あなたが並盛山に入ったかもしれないって。すると父はあなたのお父さんにそのことを話したんでしょうね。あなたのお父さんは真っ直ぐに御山へと向かったわ。けど、私は……」
「あなたはもう死んでいると、思ったの。御山に入って無事に済むわけがないから」
 彼女の言葉は、正しい。五つか六つの子供が山に入って無事に済むはずがない。それはどの山とて同じだ。道を踏み外して迷子になった挙げ句に、餓えた獣の餌になるのが関の山である。並盛山にはさらに、鬼がいる。
 綱吉はふと甦ってくる過去の恐怖に、身体が微かに震えてくるのを感じた。それに耐えるかのように、ぎゅっと強く目蓋を閉じる。
「運が、良かったんだよ……本当に」
 甦るのは、獣の顔。荒い息づかいを繰り返す獣の姿。そして――吹き抜ける風。
 本当に、自分は運が良かったのだと綱吉は思う。本来ならば綱吉はあの日、あの時にあの獣によって命を絶っていたはずなのだ。
 そんな綱吉をあの時救ってくれたのは誰だったか、綱吉は時が経つにつれ記憶の底に埋もれていったその日の出来事を引き上げようと眉間に眉を寄せる。けれど思考に埋もれていく綱吉を、女の声が強引に引き上げた。
「嘘よ」
 断罪するような声だった。
「運が良かった? 嘘吐かないで」
 綱吉は困惑して久美子を見つめる。
 嘘を吐いているつもりはない。けれど彼女の声は明らかに綱吉を責めていた。そして困惑する原因のもう一つに、堅い声音に対して彼女の表情は、まるで何かに縋るように苦しげに歪められている。
「あなた、鬼と関わりがあるんでしょう」
 告げられた言葉に、綱吉は瞠目した。
「……な、なんでそんな…」
 突拍子のない話になるんだ。
 綱吉は一気に力が抜けるのを感じたが、目の前の少女はあくまで真剣だった。真っ直ぐに綱吉を見つめる瞳に冗談やからかいの色はない。
「私、知ってるのよ。あなたのお父さんが何度も並盛山に入っていって、無事に帰ってきてること」
「!?」
「それと…今思えばあなたが御山に入ったって事を聞いた時、あなたのお父さん、顔が少し緩んで息を吐いたの。あれってどうして? 変よね、息子が鬼のいる山に向かったっていうのに。……まるで安堵したみたい」
 次々と降り注いでくる言葉の羅列に、綱吉はただ混乱する。
 そんなことは、知らない。
「それに、父と何度も話し合ってるのを見たことがあるのよ。といっても一方的に父が詰め寄っているだけのようだったけど。所々、並盛山って言葉が聞こえてくることがあったの」
 女の話す言葉は綱吉には理解ができなかった。整頓のできていない引き出しの中身が、無造作に引っ張られる感覚。
 そんな綱吉など構う様子もなく、女は残酷に言葉を叩きつける。
「ねえ、あなた鬼と関わりがあるんでしょ? だから御山に入っても助かったんでしょ?」
「鬼に顔が利くのよね? だからあなたは今ここに居るの。父があなたを呼んだのよ」
「ねえ、お願い。助けて、私を。助けてちょうだい。あの、あの―――」
 女の切実な声が届く。けれど綱吉は何も返すことができない。ただ阿呆のように立っているだけ。
 無造作に引っ張られた引き出しは、宙を舞い、引き出しの中身を投げ出してしまった。散らばったものは、ゴミか宝か。
 綱吉にはわからない。久美子の口から出てくる言葉を何一つ、理解できないから。
 女の口が、尚も動く。いつからか、女の唇が震えていた。震えているのに、女は言葉を綴る。
「あの――――鬼から…」
 告げられた言葉は震えすぎていて、やっと綱吉に聞き取れるくらいだった。
 女の身体が本格的に震え始め、ガタガタと足下が頼りない。見開いた目はそのまま、瞬き一つせず綱吉を見ている。否、綱吉の更に……遠く。
 じゃり、と聞き慣れた草履の裏が砂利を踏む音が、綱吉の背後から聞こえた。


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