一

 浮かびあがってくるものは、凍えるような恐怖心のみ。
 背後から、或いは足の爪先から襲い来る黒くて大きな『絶望』から逃れるべく、小さな幼子は懸命に足を前へ前へと突き出していく。
 幼子の小さな足へと母が宛がってくれた草履は、既に片方無くしてしまっていた。父のお下がりだという少し色の黄ばんだ着物は何度か転んだ為に泥に塗れ、袖の振りは道を塞ぐ木々に幾度と絡め取られ所々の糸が解れてしまっている。
 そして剥き出しの足だけといわず手に顔に、草木によって無情に傷つけられた生傷が幼子の柔肌に痛々しく浮かび上がっていた。流れる鮮血が、幼子の歩んだ道をつくる。
 幼子は後ろを振り返らず、ただひたすらに前へ前へと足を進めていく。
 後ろは、『絶望』だ。
 形の見えないはずの『絶望』は、しかし不思議なことに幼子には解っていた。アレは黒くて巨大で、ちっぽけな幼子など簡単に呑み込んでしまう。
 だからこそ、幼子は振り切るようにして歩を進める。
 パキリ、と草履の裏が地面を転がる枝を踏みつけ、小さな音が鳴った。不意にふらついた足下に、幼子の小さな身体がよろめく。体勢を立て直そうとして捻った身体はそのまま樹木に打ち付けた。暫く、事切れたように樹木の根元で幼子は蹲る。
 途端、木々のざわめきに雑じって幾つもの細やかな足音が幼子の周りを取り巻いた。ハッハと落ち着きのない息の荒さに、獣独特の臭いが鼻につく。
 救済を求めた。何度も、何度も。その度に恐怖のどん底に突き放されながらも。
 目の前に広がるのは、薄汚れ、ごわついた焦げ茶色の毛で被われた獣。忙しない息づかいを繰り返すその獣。残酷なまでに鋭い犬歯を持つ獣。
 救済を求めた。父に、母に。友人に。
 息を吸い込む。干からびた喉が悲鳴をあげて、幼子の身体が一度大きく震えた。目の前の獣がそれに驚いたように跳ね、けれど立ち去らず、より警戒するように幼子を見据えてくる。
 幼子は構わず咳を繰り返した。けれど水分が著しく減少した身体からは禄に痰も出ず、ただ苦しいだけの咳を繰り返す。
 パキリ、と獣の太い前足が地面に転がる枝を踏んだ。
 歪み始めた視界の中に映るのは、身を低く屈めた獣。獲物を前に餓えた眼を鈍く光らす獣の姿。その獣の足がふ、と力強く地面を蹴った。
 救済を求めた。凍える恐怖心から逃れるように。何度も、何度も。
 目の前に広がるは、獣の顔。喜びも、悲しみも怒りも、感じ取ることができない獣の黒い眼。
 救済を――求める。
「……だ…っか……」
 居もしない、知りもしない、自分を救ってくれる誰かに。

 ――風が、吹く。




第一章
 風、吹いて




 二

「ふわああ」
 手で隠すことなく、恥ずかしげもなく大口を開けて綱吉は欠伸を零した。吐き出された息は、雲のない春空に透き通るように消えていく。
 手の平は早朝から続く畑作の土弄りで汚れてしまっていたため、欠伸によって目尻に浮かんだ涙を綱吉は頭を肩に擦り付けることで拭った。それから凝った腰を労るように、綱吉はぐっと背筋を伸ばす。
 だが、
「サボってんじゃねーぞ」
「――ぎゃああ!?」
 幼い声が届くと同時に、腰に重い衝撃が走った。ゴキ、という鈍い音が腰から響く。
 前屈みになった身体を地面に手をつくことで身体を支えた綱吉は、四つ這いの体勢のまま、事の張本人を泣き交じりに睨み付けた。
「何するんだよ、リボーン!」
 けれど鋭い蹴りを綱吉に入れた張本人、リボーンと呼ばれた童は表情ひとつ変えず、その見た目だけは無垢な瞳でさらりと答えてくる。
「仕置きだぞ」
「はあ?」
 体勢を整えながら地面の上に座り込んだ綱吉は返ってきた返事に眉を顰めた。
 理不尽なこの童の行動には耐性がついたと思っていたが、そうでも無かったらしい。綱吉には仕置きをされる理由が見つからなかった。
「今勝手に休んでただろ」
「んな! あれはただ腰が凝ったから伸ばしていただけだって」
「…年寄りくせえな」
「ほっとけ!」
 何故、若干赤ん坊にして貫禄を見せる奴に、そんな事を言われなくてならないのか!
 元々リボーンと呼ばれるこの童はちょうど去年、唐突に現れた。彼は綱吉の父、沢田家光の知己だといい、その家光の頼みでここ並盛までやって来たのだと言う。ちなみに沢田家光は突然失踪し、彼がいなくなってから既に二年目を迎えている。リボーンの言が無ければ今頃は最悪な展開を受け入れてしまっているところだ。現状が最悪なことには変わりはないが。
 人が良いというよりは物事に大らかすぎる気配がある母の奈々と違い、最初綱吉は全くそんなことは信じていなかった。
 彼は一人で並盛まで来たというが、まずそれが信じられるはずもない。今のご時世と言わず、どんな時代だろうと赤ん坊が一人で遠出できるはずがないのだ。しかし、今はその法螺を信じてしまっている節があるのを、綱吉自身感じてしまっている。
 とにかくこの赤ん坊、普通ではないのだ。
 零れ落ちてしまいそうに大きな瞳も、餅のように滑らかで、ふんわりとした傷一つない肌も。未発達すぎる身体も紛れもなく童子のものであるというのに、その身体から発せられる力は大の大人をも凌ぐ。さらに言うなら赤ん坊ならぬ流暢なしゃべり方も、時おり見せる貫禄も普通ではありえない。
 つまり彼には「奴ならやりかねない」と思わせる何かがあるのだ。
 そして何だかんだとリボーンが沢田家の居候となって、一年近く経ちつつある。怒濤のような一年であったと、ここ一年の騒動を思い浮かべて綱吉はため息をついた。
「それで何の用だよ、リボーン」
 時折、監視だといって綱吉の作業について来る時もあるが、朝に会った時はそんな様子を見せていなかった。もちろん、彼の場合はただの気紛れということも有り得るが。
 頭巾のずれを直しながら綱吉の言葉を聞いたリボーンは、心持ち呆れたように綱吉に見返した。
「やっぱ忘れてやがったか」
「…え?」
「今日は呼ばれてるんじゃなかったのか」
 誰に、と尋ねようとしたその次の瞬間、綱吉はああっと声を張り上げた。
「ど、どうしよう!? もう昼前だよっ」
 慌てふためく綱吉をよそに、リボーンは淡々と答える。
「いつもの三割り増しでねちっこく言われること確実だな」
「あああっ! もう、何で朝に教えてくれなかったんだよ〜!」
 慌てて立ち上がりそのまま家へと駆けだした。その背後から「甘えるんじゃねぇ、ダメツナが」と容赦の無い叱咤が飛んできたが、綱吉はそれには応えずただ心の中で「いいよな、居候は気楽で!」と応対しながら畑を抜けた。
 そのまま井戸水の溜まった桶の中に手をつけ、泥を洗い落とす。水滴を空中で払い落としてから、自分の身包み―浅葱色をした小袖で濡れた手を拭った。それからきょろきょろと忙しなく顔を巡らせながら辺りを散策し、目的の人物を土間で見つける。
「母さん!」
 土間ですり鉢を支えながらすりこぎを動かしていた母親の奈々が、綱吉の呼び声にその動きを止めて振り返る。
「あら。なあに、ツっ君」
 振り返った奈々は、表情の端端に幼さを覗かせる笑顔で息子を迎え入れた。
「あのさ、俺これから村長ん家に行ってくるから」
「…村長?」
「うん、呼ばれてるの今思い出して」
 そう付け足した綱吉の言葉に、ニコニコと微笑んでいた奈々の表情が訝しげなものと変わる。完全にすり鉢から手を離して、その手を腰に宛がった。そして嘘を見極めるようにジッと息子の目を見据えながら、咎めるような声を出す。
「ツっ君、まさか村長さん家にご迷惑をお掛けしたんじゃないでしょうね?」
 綱吉は弾けるように身体を飛び上がらせてから、慌ててブンブンと首を振って否定した。
「まさか! 俺はべつに何もやってないよっ」
 では何故呼び出しなどされるのか、と疑問が残るが綱吉には本当に「何か」をした覚えがないので仕方ない。しかし覚えがない、というのは少し語弊があった。
 綱吉は人より少々運動も勉学も劣っている。寺子屋での授業は見事にちんぷんかんぷんであるし、畑作の土弄りでは雑草と間違えてようやく芽吹き始めた芽を摘むってしまうこともある。多少の失敗は常に当たり前、という状態だったため、周りからは何をやってもダメダメという意味を含め「ダメツナ」とまで呼ばれるくらいだ。
 そんな綱吉を、村長の根津銅八郎は邪険に思っているようだった。
 事あるごとに綱吉の失敗を見つけては、それをネタにねちねちと嫌みを言ってくる。元々綱吉の父、家光と確執があったようだがその父が突如として消えてからはその嫌みが綱吉に集中したのだ。
 例えば年貢を納めに綱吉が母と共に丹精した作物を届けると、彼はその場で包みを解き、他の農家より少量の米とそれを補うために包んだ野菜を見ては顔を思い切り不快に歪めた。そしてこんな萎びれた野菜を納めるのでは村の水準が下がるやら、品性が疑われるなどと永遠とほざいてくれた。
 綱吉はそんな村長をハッキリと嫌な奴だ、と思って嫌っているがそれを表に出していえるほど気が強くない。だから結果としてまともに言い訳もできず、ただ黙って根津が満足するまで耐えることが常であった。
 そんな訳であるから、奈々の言う『村長宅にご迷惑』を本当に掛けた為に今回呼び出されたのか、ただ綱吉の少時の失敗をいたぶる為に呼んだのかは定かではない。
 だがそんなことを母である奈々に言えるはずもない。彼女には突如失踪した父のせいで、余分な負担を掛けていることは鈍い綱吉にも解っていたからだ。根津の嫌みを聞き流すくらいは、綱吉にもできる。
「あ、じゃあ行ってくるから!」
 更なる追求を逃れようと、綱吉は慌てて土間から出て行った。呼びかけられたような気がしないでもないが、それを振り切って綱吉は家を飛び出していく。
 そして重い足を引きずるようにして、村長家に足を運んだ。

 ***

 家を飛び出してから、およそ十五分後。綱吉は歩き慣れた田地を亀のごとく鈍さで歩いていた。綱吉の家から村長の家まで、もちろん普通はそんなに掛からない。
 並盛の中には幾つかの村や町などの集落が存在するが、綱吉の住む此処は大きくも小さくもない正しく並の広さを持つ土地だ。急いで行けば恐らく十分程度で辿り着く。だが綱吉の足は自分自身に正直に、その歩みは遅かった。
 約束の時間は辰の刻。しかし今は巳の刻へと入ってしまっている。リボーンの言う通り、根津の嫌みは三割り増しなことだろう。約束の時間に間に合うようならともかく、ずっと過ぎてしまってはわざわざ走って向かう気力も無かった。
 だが歩き続ければ自ずと目的地へ辿り着く。
 周りの農家より一段立派に構えてある住居が目につくなり、綱吉は項だれていた頭を渋々と持ち上げた。しかしそこで、思わず目を見張る。
「京子ちゃん! と、ハル!」
 村長の家の門構えのところ、見知った二人の少女がまるで家の中を覗くようにして立っているという怪しげな状況に、思わず綱吉は二人の名を上げた。
 名を呼ばれた二人は一瞬びくりと肩を震わせたが、恐る恐ると振り向いた先にいる綱吉を見て安心したように強張らせていた顔を綻ばせていく。
「あ、ツナ君」
「はひーっ、もうツナさん! 驚かせないでくださいよぉ」
「ええっ? というか、二人してこんな所で何してるの」
 飛び上がった心臓を押さえるように胸に手を当てて抗議してくるハルに目を白黒させながら、綱吉が問い掛ける。
「えっと、それはね。……そういえば、ツナ君は?」
 ことんと純粋に傾げられた京子の首に、綱吉はサッと目線を宙に泳がした。重力の法則に抗ってあちこちに跳ねている自分の髪に手をいれて、呼ばれた理由が理由だけに乾いた笑みで答える。
「あ、いや俺はちょっと、村長に呼ばれてて…」
 あはは、一人だけ心苦しくなって笑い始める綱吉を二人は不思議そうに見た。
「そうなんですか? あ、でもでも、もしかしたら今は村長さん、会ってくれないかもですよ」
「…えっ?」
 突然のハルの言葉に、今度は綱吉が聞き返した。
「それってどういう…」
「今ね、お客さんが来てるみたいなの」
「え、そうなの?」
 思わず問い返すと、二人は揃って首を縦に振る。
 綱吉はそれを見てそれではどうしようか、と頭をひねった。二人が客だと云うのだから、まず村の人間ではないのだろう。あの村長が、客が居る時に自分を構うはずがない。
 自分の思考に埋まる綱吉を前に、京子とハルはお互いに顔を向け合った。そして落ちた沈黙を破ったのは京子の方。
「あのね、ツナ君。そのお客さんのこと何だけど…」
 そこで言い淀む。
 綱吉は顔を京子の方へ向け、そしてまた首を傾げた。京子の顔は困惑しているようで、それはハルも同様だった。
 言い淀んだ京子の後を続くように、ハルが続ける。
「そのお客さん、御山の方から来たみたいなんですっ」
 一瞬、綱吉は何を言われたのかわからなかった。ぽかんとだらしなく口を半開きに、二人を見つめる。
「……御山って…」
「並盛山ですよ!」
 思わずごくり、と唾を飲み込む。
 並盛山、それは地元民では禁忌とされる場所だった。綱吉にはとりあえず、笑って誤魔化すぐらいしかできない。
「ま、まさか〜」
「でもハルと京子ちゃんは見たんですよ! 大柄の人が並盛山から下りてきて、そのまま村長さん家に入っていったんです!」
 ね、京子ちゃん!と賛同を求めハルがその勢いのまま京子を振り返ると、彼女も困惑しながら青ざめた表情で肯いてくる。
「で、でもほら、並盛山って結構有名じゃないか。だから、別の町から来た人が何も知らないで、うんほら、観光気分とかで勝手に入っていっちゃっただけじゃないかな〜?」
 なんて。思いつく限りのことを並べたてた綱吉は、自身の中でそれが明確となっていった。そう、今さっき綱吉が言ったことは決してあり得なくはない。
 並盛山は何かと知名度が高いのだか、本当に有名なのは地名だけだ。名前だけが独り歩きをしている。その山の"何が"有名なのか、それは地元民しか知らないのだ。
 二人は未だ少し顔を青ざめていたが、それでも綱吉の言葉にほっと胸を撫で下ろした。
「そっか、そうだよね。ありがとう、ツナ君」
「はひー、お恥ずかしいです。ハルはすっかり勘違いしてしまいました」
「う、ううん。しょうがないよ、並盛山じゃ…」
 素直に感謝の言葉を送られて自分の頬が赤くなるのを感じながら、綱吉は照れ隠しにブンブンと首を横に振る。
 それから今思い出したように態とらしく声を上げ、綱吉は二人の注意を惹きつけた。
「あ、俺じゃあ村長の所に行くね。お客さんが居るんじゃ、会ってくれないかもしれないけど。一応顔を出しておかなきゃだから」
 もしかしたらお客が居るために嫌みを聞かなくてもよくなるかもしれない。また明日に呼び出される可能性も無くはないが。
 綱吉はまず少ない確率の奇跡が起こることを信じて、そう言った。
 そこで各々も自ずと自分の用事を思い出したのか、綱吉に一言二言別れの言葉を告げてから少し慌てたようにして駆けだしていった。綱吉はそんな二人の少女を見送ってから、一人となって村長の敷地の入り口となる門を見上げた。それから村長の家より更に北に、高く聳える山を見上げる。
 突如、ぞっと背筋を這う悪寒に襲われて綱吉は身体を震わせた。そしてまるでその山から逃れるように、綱吉は慌てて境界線である門の敷居を跨ぐ。
 山の名を、並盛山という。

 並盛山には鬼が住む。
 何年、何十年、若しくは何百年も前からか。いつから居たのか、気づいた時には既に鬼の集団が山に巣くっていたのだという。
 彼らは偶に下山しては人を襲い、人を喰らう。
 その行動は実に巧妙で、喰われた者はまるで神隠しにあったかのように行方を眩ました。
 昔に何度か『討伐隊』が国から派遣されたこともあるようだが、その『討伐隊』が山から帰ることは無かったらしい。だからこそ地元民たちは並盛山を避けて通る。どんなに恵まれた幸の多い山であろうと、踏み込めばただでは済まないのだ。
 親から子へと、確実にその話は伝わっていく。

「並盛山には、鬼がいる。山に入れば、鬼に喰われてしまうよ」、と。

 応対に出てきた下男に訳を話して暫く待たされた後、綱吉は建物の縁側の庭へと連れてこられた。縁側に設けられた細長い板敷の上には、予想の通り、できれば会いたくないと思っていた人物が尊大に立って綱吉を見下ろしている。
「随分とゆっくりとしたご到着じゃないか、沢田」
 ねっとりと肌に纏わり付くような声。村長の根津銅八郎だ。
「あくまで仮定の話だが……、約束の時間もまともに守れない奴がいるとしよう」
 綱吉は始まった根津の言葉にうっと言葉を詰まらせた。
 俯いてしまった綱吉の上から、根津の嘲笑の言葉が降り注ぐ。
「私が思うにそういう奴は自己中心的な奴が多く、人の忠告にも耳を貸さず失敗を繰り返すものだ。何故なら自分が正しいと思っているからな」
「そういう奴は年貢もまともに納めることもできやしない。集団責任を取らざる得ない村において、そういう奴は足をひっぱるお荷物にしかならない」
「そんなクズに生きている意味があるのかねぇ?」
 ギリ、と唇を噛み締める。だがやはり、綱吉は何も言わずただひたすらに堪えるだけだ。
 プライドが無いわけではない。言われ慣れたわけではない。相手の立場を尊重しているわけでもない。相手と向かい合う度胸と気力が無いだけだ。何を言っても無駄なのだ、と。「ダメツナ」と呼ばれ続けてきた過去が、綱吉から意欲を奪っていた。
 綱吉は尚言いつのろうとする根津から視点を外し、その視線だけを動かした。そして根津の身体の向こう、まだ昼間だというのに閉まっている障子を見つけ不思議と見つめる。
 障子は不注意か、ほんのりと隙間を空けていた。その奥に人影を見つけ、綱吉は更に目を細める。
 村の誰よりも大柄の人だ。鈍色の十徳を羽織ったガッシリとした肩が、綱吉にそう思わせる。
 その人は綱吉の視線に気付いたのだろう。振り返る。綱吉には、その動作がやけにゆっくりとして見えた。
「――沢田ッ」
 綱吉の注意が自分に向いておらず、自分の背にあることに気が付いた根津が慌てた声で綱吉を呼ぶ。唐突に強い口調で呼ばれた綱吉はハッと我に返るように、根津に視線をあげた。
「今日は客人が来ているからな、今日はもういい――いや…」
 綱吉の意識を障子の奥から離すように、やけにぞんざいに追い返そうとした根津であったがその動きが一瞬止まる。そして障子の奥を気にするような素振りを見せてから、縁側に置かれた草履を履き綱吉の側に近寄った。
 その根津の動きを訝しげにながめながらも、綱吉はもう一度障子の奥に視線を流す。
 だが既に障子の奥に座っている人物は綱吉達のことなど興味がないのか、後ろを向けたままぴくりとも動かない。綱吉は何故か、その後ろ姿に戦慄を覚えた。
 見覚えのない背格好。彼が、京子たちが言っていた”並盛山からきた客人”なのだろう。
 綱吉はとっさに村長から本当のことを確かめたい気持ちに陥ったが、根津は綱吉のことなど気にした風もなく相変わらずぞんざいに扱う。
 痛いほどに握りしめられた腕は、すぐに放された。根津は先程から頻りに障子の奥を気にしており、まるでその奥にいる彼に聞かれるのを恐れているように声をひそめてくる。
「今日の夕方、日が完全に暮れる前にもう一度ここに来い」
「…え…?」
「頼みたいことがある。――いいな、絶対に来るんだぞ」
 根津はそれだけを言って、もう用は済んだといわんばかりに「帰っていいぞ」と言った。


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