彼は生まれたその日から"光"とは無縁だった。
 もしかしたら母の胎内から産まれたその時に、うっすらと"光"を見たかもしれない。けれど彼自身は全く覚えていなかった。
 母の胎内から出た彼は、そのまま強い力に引かれ、大きな手で身体を持ち上げられた。あまりにも強く彼の身体は持たれたので、彼は痛みをその人に訴えるために泣いた。決してその行為は間違ってはいなかっただろう。しかし、次の瞬間に彼は自分の手足が千切れたことを知った。
 音が聞こえる。手足が千切れても聴覚は変わらず健在らしく、彼の脳にその音を伝えた。
 幸か不幸か、産まれたばかりの彼にはその音が何を意味するのかわからなかった。ただ徐々に彼の聴覚が音を拾うのを止め、彼のあらゆる身体の骨が粉々になり、どこかへと吸い込まれていったことだけ理解する。そして彼の意識は一度そこで途切れた。
 次に彼が意識を取り戻した時、そこは"闇"だった。千切れたはずの手は何故かもう彼の元にあり、それを動かすことができたが、その手を見ることは叶わなかった。
 広いのか狭いのか、それすらも解らない闇の中で、彼はこの場所に自分一人だけではないことに気付く。闇の中でも空気はあった。彼は空気の動きを辿って、首を回す。
「こんにちは」
 声は驚くほど近くから聞こえた。
「こんにちは」
 彼は咄嗟に返事を返した。彼の隣から、くすりと声が漏れる。
「わたし、ヘスティア」
 声の主はそう言うと、またクスクスと声を漏らした。
「どうして変な声を出しているの?」
「変な声じゃないわ。嬉しいから、笑っているの」
「嬉しい? どうして?」
「ハデスがいるから。今までわたし、ここにひとりきりだったの。だから、ハデスが来てくれて嬉しいのよ」
「ふうん。それで、ハデスってだれ?」
 ヘスティアの声に耳を傾けながら、彼はコトンと首を傾げた。その動作が見えたわけではないだろうが、ヘスティアはまた声を震わせて笑った。
「あなたのことよ。ハデスって、あなたの名前なの」
 その言葉に彼は驚き、ぎょっとしてヘスティアを見上げた。もちろん見えるのは"闇"だけであったが。
 彼は心底不思議そうに訊ねた。
「どうして知ってるの? そんなこと」
「"お母さん"が教えてくれたのよ。ほら、静かにして、耳を澄ませてみて。まだ聞こえるかもしれない」
 ヘスティアの言葉どおり、彼は耳を澄ます。ヘスティアも同様、耳を澄ませることに全神経を働かせているのか、空気はぴくりとも動かない。"闇"が広がった。
 そして彼は音を拾った。それは彼自身のものではなかったし、ヘスティアのものでもなかった。
 その声は穏やかに話しかけてくるが、どこか途方もなく悲痛に満ち、彼はその声を聞いているうちに悲しくなった。しかし突如として乾いた音が響くと、その声は止み、次に苛立ったような声が響く。その声はどの音よりも響いた。
「この声は"お父さん"よ」
 ヘスティアが無機質な声で言った。
「その前の乾いた音はなに?」
「わたしもよくわからないわ、ハデス。けど、お父さんとお母さんが一緒にいるときによく鳴るの。お父さんはいつも苛立っているのよ」
「どうして?」
「わからないわ」
 ヘスティアの姿はやはり見えはしなかったが、彼はヘスティアが首を左右に振ったような気がした。
 彼は年月の数え方を知らなかったが、その"闇"の中で沢山の年月を過ごし、彼の姉妹弟たちと共に成長していった。"光"を知らない彼にとって"闇"は当たり前のことで、それを苦に思うことなどないのである。
 しかし、それも唐突に終わりを告げる。
 姉妹弟たちがひとり、ひとりとどこかへと吸い上げられていく様を、彼は空気の動きで感じ取った。そして彼自身も。それは、常闇の終わりだった。
 初めて見た父の姿は、"闇"の中で聞いていた声とはあまりに違く、床に蹲った姿はあまりに弱々しく彼には見えた。
「我が母レアの望み、私の兄弟たちを返してもらえますね」
 "光"の中で不慣れだった彼は、不意にはっきりと空気の動きを感じてその声の主を振り返る。
 それはあまりに強い光だった。光を浴びた銀色の髪が彼の目を焼き、強い光を帯びたスミレ色の瞳が彼の思考を奪いさる。"闇"しか知らなかった彼にはその"光"があまりにも強烈すぎて、彼の意識はまた闇に戻っていった。
 次に意識を取り戻した時、そこは見慣れた"闇"ではなく"光"だった。彼は目を開けた先に石の天井と壁を見据えて、次にぎょっと上半身を起きあがらせた。
 そしてすぐ隣で空気の動きを敏感に感じて、振り返る。
「お寝坊さんね、ハデス。もうみんな起きているわよ」
 声の主はクスリと笑いの余韻を残して言った。
 彼はその声の主を凝視する。暗闇をほのかに照らす炎のような髪を豊かに垂らし、同色の両眼には穏やかな光が宿っていた。
 彼はその人を知らなかったが、その声は誰よりも見知ったものであった。
「……ヘスティア?」
「ええ、そうよ」
 肯定するヘスティアの瞳は揺れていた。その瞳にたちまち溜まっていくソレを不思議そうに眺めていた彼は、突然ヘスティアに抱きしめられ、驚いて彼女を見据える。
 瞳から溢れだしたソレは、ヘスティアの頬と共に彼の顔も濡らした。
「ヘスティア、どうした? 声がヘラになってる」
 声を震わせて空気を異常に動かすのは、いつもヘラのやることで、彼が知る限りヘスティアがそうしたことはない。
 彼が困惑気味に訊ねると、嗄れた声でヘスティアは言った。
「わたしは泣いているのよ、ハデス。それにそんな言い方はヘラに失礼だわ」
「ごめん。けど、なぜ泣いてるんだ?」
「貴方の顔を見ることができて嬉しいからよ」
 それは彼にとって些かおかしな回答だった。
「嬉しい…?」
「そうよ、わたしはいつも思っていたの。貴方たちの顔を見て、こうして話すことができたらどんなに良いかって。ずっと夢だったわ。それが、ほら、叶ったんですもの」
 ヘスティアの告白は、彼に軽い衝撃を与えた。
 彼にとって"闇"はあまりにも当たり前で、ヘスティアや兄弟たちの姿が見えないのも、また当然であった。だから彼はヘスティアが望んでいたことを、思いつきもしない。けれどヘスティアの声が心底この状態を喜んでいることを、彼は察することはできた。
 ヘスティアが微笑む。
「こうして抱き合うこともできなかったのよ。あそこは暗くて、一歩だって動けなかったから」
 背にまわされたヘスティアの腕が、さらにきつく彼を抱きしめた。
「わたしたちって、実はとても温かかったのね……」
 ヘスティアと触れ合う肌から、彼の顔を濡らすソレまで、まるで熱を持ったような暖かさが伝わる。熱を吸い取っているような、吸い取られているような不思議な体温。確かにそれは、彼の知らなかった、心地よさを持った温かさだった。
「ヘスティア」
 彼は不意に恐ろしくなって、彼女の名を呼んだ。
 ヘスティアが顔を上げる。
「わたしたちは此処で生き埋めにされるのか?」
 その言葉に、ヘスティアは目を見開いた。そして心底不思議そうに目を瞬かせる。
「まあ、ハデス、なぜそんなことを思いついたの?」
「四方が囲まれている。それに、上にも」
 そう言って彼は不安そうに辺りの壁を見渡して、天井を恐ろしげに見上げた。まるで今にも壁が狭まって、彼を押しつぶそうとしてくるのではないかと恐れているように。
 暫く驚いたように彼を見ていたヘスティアは、突如として我に返り、ぷっと声を吹き出した。それから腹を捩って、ベッドの上に顔を押し当て声を潜めていたが、"闇"の中で過ごしていた彼にはほんの少しの声と空気の振動だけで彼女が笑っていることは知れた。
 彼は理解できないように、眉をひそめて訊ねる。
「どうして笑っているんだ?」
「ごめんなさい。わたしはそこまで考えなかったから驚いたのよ」
「驚いたから笑っているのか?」
 心底不思議そうに彼が訊ねると、またヘスティアが笑った。
「もちろん違うわ。面白かったから、わたしは笑っているの」
「なにか面白いことがあった?」
「ええ、わたしにとっては。けど、それを教えるよりもまずはあなたの誤解を解かないといけないわね」
「誤解?」
「そう、或いは心配をかしら」
 声に笑いの余韻を残しながら、ヘスティアは言った。
「わたしたちは此処で生き埋めになんてされないのよ。四方を囲むのは壁といって、上のものは天井と言うんですって。どちらもわたしたちを守るものだそうよ」
「守る? なにから?」
「それはわたしにもよくわからないわ」
 ヘスティアの言葉を聞き、彼はもう一度四方の壁と天井を見渡した。闇の中に、それはないものである。彼はやはり今にもそれらが彼に向かって倒れてくるような気がして、身動ぐ。
「本当に大丈夫なのか?」
「保証はできないわね。わたしだって初めてですもの」
 淡々としたヘスティアの言葉に、彼はサッと血の気が引いた。
 その様子を目敏く見たヘスティアがまた声を吹き出して笑う。
「あなたって本当に面白いわ」
 クスクスと笑ってから、ヘスティアは立ち上がった。そしてベッドの上で上半身を起こして座るハデスを見下ろして言う。
「さあ、起きあがれるようなら立ってちょうだい。みんなに会いに行きましょう」
 問いかけるように、彼はヘスティアを見上げた。
「デメテル達と、お母さんにお祖母ちゃん。それと最後の兄弟よ」

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2006/11/18 脱稿