あれは〈殺す女〉だと、〈死〉を意味する男が言った。

 血飛沫が舞う。見えない敵に狂った恐怖の顔を向け、その男はどうと身体を傾けた。彼の胸に倒れ込んだ男の背には、赤く濡れた剣先が見える。彼は深々と突き刺さった剣を引き抜いた。
 赤い血が舞う。
 彼は寄り掛かる男の肩を押した。抵抗もなく、身体の大半を赤く染めた男は地面に仰向けに倒れる。
 瞳孔がない目。風穴が開いた胸。固く強張った身体。おびただしい赤い血。こんな状態でも男は死んではいなかった。心臓の鼓動に従って脈打つ音が、確かに男が生きていることを証明している。いや、血管に律動する音が「生きろ」と男に訴えているのだ。
 どくん どくん どくん どくん ドクン ……
 ――自分も"こう"であったのだろうかと、彼は男を見ながら思った。
 彼は産まれ落ちてから数分とせずに、父親によってその身体を「食べられた」。
 そして"闇"の中だと思っていたそこは、実は父親の腹の中であると。今より数年前、六人目の兄弟によって助けられたのち聞かされたその事実に、彼は実感が湧かなかった。
 しかし逆に、なるほどと納得もした。母の胎内から出た直後にある記憶。あの、自分を強く持ち上げた手は。持ち上げる手の強さに泣いた自分の手足を、苛立たしげにもぎ取った手は。自分の肉と骨を粉々に打ち砕いていったのは、父であったのだ。
 最初にあるその記憶は、父が自分を食べているその時であったのだろうと、彼は頭の隅で納得した。
 そして次に目が覚めた時、彼は"闇"の中に居た。
 父親に食べられ、千切れた手足も砕かれた骨も当たり前のように存在する。彼は覚えていなかったが、父に食べられ、あの"闇"の中で彼の身体はこの目の前で倒れている男のように、心臓の鼓動の音を響かせていたのだ。「生きろ」、と。執拗なまでに。
「ハデス?」
 彼は名を呼ばれ、倒れた男から目を離し、視線を上げた。
 周りにはその男のように、無惨に倒れた男たちが散らばっている。倒れた<死なない男達>は、それでも生命の根本たる赤い血をおびただしく流し、辺りは血のむせ返る臭いで充満していた。
 その中――彼ひとりが立っていた場所――に、突如として強い"光"が現れた。
 彼は思わず目を細める。だがその"光"――彼を父親の体内から救い出した男――は困ったように、何かを探すようにきょろきょろと首を回しながら、もう一度彼の名を呼んだ。
「ハデス、どこだ? いるんだろ」
 彼は何も言わず、兜を脱いだ。手に持った兜は、彼の身体同様に血濡れていた。
 彼の名を呼んでいた男が、彼の姿を見つけ駆け寄ってくる。そして血塗れの彼の姿など何でもないかのように、ふっと気の抜けた顔で笑った。
「その兜、便利だけど不便だよなぁ。俺たちにも姿が見えないなんてさ、敵にだけ見えなくなりゃいいのに。そう思わないか?」
「思わなくはないが、そう都合良くはいかないだろう」
 彼の兜は、彼の姿を見えなくする力があった。だからその兜を被っている時、彼の姿は誰にも見ることはできない。
「そりゃそうだけど……あーあ」
 男が頭の後ろで手を組んで、天を仰いで嘆息した。
 血によって充満した濁った空気が、男の吐いた息に震える。なぜだかその男が吐いた息だけが、この場の濁った空気を突き破って天に浮かんでいったような気がして、彼もゆっくりと視線を上げた。
 それは、夕暮れ方を過ぎた今だからこそ移れた行動であった。
 彼は、男によって父親の体内から兄弟たちと救い出され、"光"の中で生活を始めてから十年ほど経つ今でも日中の空を仰ぐことができないのだ。
「前々から思っていたんだけどさァ……」
 不意に呟かれた言葉に、彼は隣の男に視線を落とした。男が頭の後ろで組んでいた手を解いて、彼を見据えていた。スミレ色の瞳が真摯な眼差しを向ける。
「その兜を被ると姿が見えなくなるってことは、女性陣に見つからずちゃっかり沐浴に交じることも可能じゃないか……?」
「……………………………………」
 脈絡なく、ひたすら真面目な顔をして言ってきた男の顔を凝視する。
「何? その反応」
「…………………………いや……」
「あっ、もしかしてもう実践済み!? いつの間に!!」
 彼が男から視線を外し、倒れた男の元へと膝を折ると、ひどい仕打ちに憤慨したように声を張り上げた。そして倒れた男の身体を無関心に縛る彼の後ろで、両の掌で顔を覆いながら大仰に嘆く。
「ずるいわ、ハーちゃんったら。可愛い弟を除け者にして、自分だけ良い目を見たのね。ゼウス悲しいッ」
「……誰の真似だ?」
 不審げに振り返り問えば、男はにやりと笑った。
「誰だと思った?」
「わからないから聞いたんだが」
「そういう人よね、ハーちゃんは」
 肩を竦めて嘆息する。だがその直後には愉快そうな笑みを浮かべ、彼の近くまで来て同じように膝を折った。
 スミレ色の瞳がキラリと光る。
「な、な、今度その兜を貸してくれないか? 肩叩きでも掃除でも次の戦での始末書を書くのでも、とにかく何でもやるからさ。あ、ハデスに似合う女の子を紹介しようか。ハデス女っ気ないもんな、俺、女友達もたくさんいるし。うん、みんな良いヤツだし。なあ、それでいいかな。兜を貸してくれるか、できれば今にも。いや、今夜はもう遅いかな、やっぱ明日に」
 口を結ぶことを忘れ、ひたすら溢れる男の言葉を、彼は遮った。
「貸すのはいいが。お前がやろうとしている事は、彼女達を良い気持ちにはさせないんじゃないか?」
 倒れた男を、意識を取りも出した時にも動けないように縛りあげた後、彼は眉をひそめて男を振り返った。
 男は悪戯坊主のように、瞳を輝かせて答える。
「ハデスはわかってないなぁ。確かに沐浴中に彼女達に俺の存在がバレれば、彼女達は般若の如く怒るだろうが……、それは内面、心を隠す仮面なんだよ。女性が水浴びをする行為には、俺たち男に覗かれることを心待ちしているという意味があるんだ。つまり、暗黙の了解だな。いいか、俺たち男はその女性の仮面に怖じ気づいていけないんだ、立ち向かうべきなんだ。彼女達もそれを望んでいるからな!」
 なんて、今この場に女性が居ればあらゆる罵詈雑言を浴びせるのではないかと思われる言葉を、男は臆すこともなく力説してみせた。
 彼は男の言葉を聞きながら、首を傾げる。それから感心したように男を見やった。
「よく知っているな」
「まあな」
 素直な感心した眼差しに、男は鼻高々に肯く。
「けど、その様子じゃハデス、やっぱ覗きなんてしてないだろ」
「思いつきもしなかった」
「…ははあ。じゃあさっきの間って、驚いてただけか。俺はてっきり図星さされて声も出ないんかと……」
 けど、ポセイドンならともかく、ハデスじゃそれは有り得なかったか。
 男がやれやれと苦笑しながら肩を竦めた。
 彼はそんな男を凝視する。
「……思いつかなかった」
 ぽつりと、もう一度呟いた。
 彼には全く思いも寄らない考え方だった。そう、だから男の言うとおり、彼は驚きその顔を凝視した。うっすらと闇の色が濃くなる中で光り輝く銀色の髪を。スミレ色の瞳を。闇に同化しつつある彼の髪と瞳とは、明らかに異質の存在を。
「すごいな」
 息を吐くのと同じように何気なく、彼の口からその言葉が出ていた。

 彼が、他の兄弟たちと自分の違いに関して違和感を抱いたのは、始めて"光"の中で違いの姿を見合った時である。色鮮やかな、光のような姿をした彼らと違って、彼の色は"闇"の中と同じだった。
 そして"光"の中へ出ることを願望していた兄弟たちに対して、彼にはソレがなかった。闇の中で光を乞うたこともなければ、兄弟たちの姿を見たいとすら思わずにいた。
『そうよ、わたしはいつも思っていたの。貴方たちの顔を見て、こうして話すことができたらどんなに良いかって。ずっと夢だったわ。それが、ほら、叶ったんですもの』
 始めて"光"の中で見たヘスティアは、彼を抱きしめ、心底嬉しそうに言った。
 涙さえ浮かべていた彼女は、"闇"の中では口には出さなかったが長い間そう願っていたのだろう。その歓喜の表情と声と、その言葉が印象的で、彼はこの時のことをよく覚えている。
 そして兄弟たちは"光"を乞い、"闇"の中に戻ることを異常に恐れていることを彼は察していた。
 逆に、彼は"光"の中を恐れ、"闇"に安らぎを感じる。
 それは明らかに【異質】だと、彼の乾いた声が内なる中で響く。兄弟たちとは違う感情によって生きる彼は、彼らとは違う生物なんだと。
 それも十年以上に及んだ、ティタノマキアと呼ばれる父王との闘いの後に、彼は納得した。
「ハデス、あなた、抗議できるのは今だけよ」
 オリュンポスに建てられた館の回廊で、背後からハッキリとした強い口調で名を呼ばれた彼は背後を振り返る。
 燃えるような赤い髪をなびかせ、艶やかな緑色の瞳に強い意志を宿した女が、ハデスを追いかけて来ていた。闘いも終わり、十分な睡眠と食事を取り始め、必要な肉を付けはじめた女の美貌は、誰の目から見ても明らかであった。
 振り返り、だが何も言わない彼に焦れたように女は言う。
「わかっているの? 地下よ、死者の国よ。どうしてわざわざ、そんな所に行かなければならないの。放っておけばいいじゃない。或いは、他の者に行かせればいいわ。私たち兄弟の中から選ぶ必要なんてないじゃないの…っ…」
「ヘラ、泣く必要はないよ」
「泣いてなんかいないわ! おかしなこと言わないでちょうだい」
 しかし、掠れた声はその女の言葉を裏切っていた。

 戦いの後、彼らは世界統治を三つに別けた。『天空』をゼウスが、『海』をポセイドンが。そして『地下』をハデスが統治することに、ついさきほど決定したのである。決定は話し合いではない。それこそ宿命によって定められたようなものだった。
 地下世界は暗く、亡者たちの国である。父に食べられ"闇"の中で育ってきた兄弟たちは"闇"を恐怖しているため、常闇の地下を統治するには相応しくないだろう。"光"そのもののようなゼウスも然り。
 しかし兄弟たちと違い"闇"に安らぎを見出す彼にはこの上なく適確である。神々の王となるべく生を受けたゼウス同様に、また彼自身も闇に満ちた地下世界を統治するべく世界が生みだした存在なのだ。
 地下世界の常闇は父の腹の闇とは少しちがう。父の闇の中では自身の手さえ見えぬ状態であったが、地下世界ではうっすらとした薄闇だ。それでも"光"を一身に浴びた地上と比べると随分と暗い。
 その暗さは彼にとってやはり心地よい明るさとなり、苦労することもなく彼は地下世界の闇に慣れた。そしてその領地を、彼は絶対君主として支配した。
 人間たちには忌み嫌われ、恐れられた。
「伯父上」
 若者に声を掛けられ、彼は目を通していた書類から顔を上げる。そこには銀色の髪をした、見慣れた甥の姿があった。銀色の髪は、やはり常闇の中だとよく映える。いつかの――若者の父親の――情景を思い出した。彼は思わず目を細める。
 若者は、変わらず顔に愉快そうな笑みを浮かべて彼に言った。

 彼は燦々と照りつける"光"の下へいた。
 若者――甥――が持ってきた伝言は、要約すれば「久々に顔を見せろ」とのことだった。ゼウスは比較的多く冥界へとやって来るが、"闇"に対して恐怖を抱いている他の兄弟たちが冥界へやって来ることはない。それ以前に自らに課した役割の仕事が忙しいはずだ。それに関しては天空の統治者であるゼウスにも当てはまることであるが…、あの男にはサボり癖がついてしまっているらしい。
 しかし、地下世界の統治者となってから彼は一度たりとも地上には出て行かなかった。それでも父から救出されたのち、約十年間は"光"の中で過ごすことができていた。であるから、その伝言を受け取った時に彼は暫し迷った末も応と答えたのだ。
 父の腹にいた"闇"の中の十数年間と比べて、彼が地下世界にいたのは数世紀も及ぶ。目が闇に慣れているのではなく、目が闇に適応するように変化していた。
 そして地上も、彼が過ごしていた時と比べようもなく変化していた。太陽神という、明確な役割を持つ神が出て世界を照らしている。それは、ティタノマキア時には無かったものだ。
 漠然とした"光"から、明確な"太陽"ができて地上の光は恍惚と光り輝く。
 その光は、既に彼の目には強すぎた。地下から出た数メートル進んだ先に、蹲る。それでも強い光は彼を襲い続けたが、その光がふと陰った。
「大丈夫?」
 頭上から振ってきた声音は、まだ幼い少女のものだった。
 顔を上げる。
「おじさん、どうかしたの?」
 十にも満たない少女が、首を傾げて彼を見下ろしていた。金色の髪が光に照らされて、彼の目をさらに痛める。彼は両目を押さえ唸った。
「おじさん?」
 光が目に刺さる。
「目が痛いの…?」
 不安そうな声音に続き、彼の腕に小さな手が添えられた。びくりと、身体に震えが走る。
 体温。小さな手から、じわじわと染み込むように伝わってくる熱。――馴染みのない感覚だった。
 地下世界では、彼は絶対君主の王だ。王に気安く触れる者などいない。
「……光が、」
 一言もしゃべらない彼に、困った様子でいる少女が目に見えて、彼は掠れた声を出した。
「光が…、目に刺さるんだ……」
「光が目にささる?」
 少女が不思議そうに言葉を繰り返した。だが彼は少女の鸚鵡返しの言葉に肯く。
「……だから目が痛いの?」
 小さな手が目を覆う彼の手に当たる。
 彼はもう一度こっくりと肯いた。
「ふうん」
 少女はさも不思議そうに首を傾げていたが、暫くすると少女の小さな手が離れた。そしておもむろに立ち上がる。
「ちょっと待ってて」
 言って少女は駆け足でどこかへと立ち去って行った。
 待っててということは、ここで少女を待たなければならないのだろうかとふと思う。どのみち、この"光"の中ではろくに進めはしないのだが。
 頭を下げて、草の上に腰を下げる彼の髪と服の端が強い空気の動きによって揺れる。地上では光のほかに、風も存在した。光を長年浴びず、全く日焼けしていない手を見据える。先程まで少女に触れられ、その温かった体温は、まるで風に吹かれ持っていかれたように元通りになっていた。
『わたしたちって、実はとても温かかったのね……』
 初めて"光"の中で、自分を抱きしめながらヘスティアが言った言葉。
 なるほど、と思った。亡者たちに無い、心地よい熱。私たちは温かかった。
 パサ、と草が踏みつけられる音。少女が来たのだろうかと、彼はほんの少しだけ顔を上げる。
「――王よ」
 黒いローブが、まるで光から彼を護るかのように立ちふさがった。
「あれは〈殺す女〉だ」
 表情のない顔から、淡々と告げられた言葉。そして現れた時と同様に、男は黒いローブをはためかせて唐突に消えた。遙か頭上で、馬がいななく声が聞こえた。
 消える瞬間、男の手に握られた剣から垂れた血糊が、生い茂った草の上に落ちる。
「おじさーん!」
 少女の声が、遠方から聞こえた。跳ねるように草を踏みつける音が、すぐに近くになる。
「はい、これ!」
 息を切らしながら目の前に差し出された物を、彼は不思議そうに凝視した。
 少女が差し出したのは、薄くほそ切れた布。
「これを目に巻けば、少しは痛くなくなるよ」
 少女はにこにこと、自分の思いつきに満足しているようで顔中に笑みが広がる。
「あのね、私のおにいさんもたまに光が痛いっていうの。そういう時にね、これ、目の上に巻くの。そうすると痛くなくなるんだって。だから、これ、使って」
 はい、と手に取ろうとしない彼に、さらに布を持った手を差し出す。
 彼は自分の胸近くまで近づいた手から、布を掴んだ。すると少女は満足したように笑い、握りしめていた布から手を放す。少女の手に握られていた部分の布は、くしゃくしゃに皺が寄っていた。どうやら、強い力で握りしめていたらしい。
「あ! けど、それで巻いたら目が見えなくなっちゃうかな? おにいさんはね、元々目が見えないの。けど、おじさんは目が見えるんでしょう?」
 こっくりと肯く。
 すると少女が自分の失敗に、顔を歪めた。どうしよう、と小さく何度も呟く。しかし彼はそんな少女を放って、手に持った布で目の上から頭の後ろへと数回巻きつける。そうしてから、一度辺りを見渡した。
 そして、少女の金の頭の上に手を置く。
「大丈夫、見えるよ」
 少女の大きな瞳が、彼を見据える。
 少女が持ってきた布は、透かして見えるほど薄い布だった。一巻きでは目に刺さる光の強さは変わりなかったが、二・三回も巻けば彼にとって丁度良い明るさとなった。
 もう一度、くしゃりと少女の髪を撫でる。
「ありがとう」
 礼を述べると、少女は満面の笑みを浮かべた。

 そして〈見えざる者〉は〈殺す女〉の手に囚われる。



補足

 ペルセポネの〈殺す女〉という意味は、神話ではきっと冥界の女王だからだと思いますが、ココではハデス限定で使っています。とにかく我が家のハデスは闇の人で、光は受け付けません。だから亡者たちの”光”を乞うた訴えを聞き入れることなく――情に流されることなく――公平な判断を下し、冥界を治めてこれたのです。しかしペルセポネはそうはいきません。亡者の声に耳を傾け、涙を流してしまいます。 そうなるとハデスは、死者を断罪する行為に迷いが生じてしまいます。なんといっても、愛する妻が涙を流しているのですから。ですが罪は裁かなくていけません。そうくると迷いとか軽々しいものじゃなくて、苦渋。そうやってペルセポネはハデスを苦しめていくのです。だからタナトス(黒いローブの男)は、「あれは貴方を死に等しく苦しめる女になる」という事を含めて一言ハデスに告げたのです。死を司る神にとって王はハデスであり、自分の王が苦しむ様を見たいと思う臣下はいませんからね。
 と、長い解釈がないとよくわからない話(遠い目)

2006/11/29 脱稿