「こんばんわー」
 コンコンコン、とぴたりと閉まったドアの戸を叩く。
「隣の晩ご飯ですよー。奥さーん、開けてー」
 コン、コン、コン。
 ノック音は止めずに、山本は扉を隔てた奥に向かって間延びした声で呼びかけた。しかし、扉の奥から返事はない。返ってきたのはアパートの隣に延びる道路を走り去った車の音のみ。
 ひゅう、と冷えた夜風が山本を通り抜けていった。
「ヒバリー、ヒバリさーん、先輩ー? ダーリンがお待ちかねですよー」
 コン、コン、コン。
 冷たい反応にも挫けず、尚も山本はノックと共に部屋の主に呼びかける。すると、今まで全くの無反応だった扉の向こう側から人の気配が濃厚になった。それを目敏く感じとった山本は、心持ち怠れていた身体に力を入れ直して扉の先を見通す。
「ヒバリ?」
 期待を込めて呼びかけた。しかし、
 ――カチ。
 それに返った音は、あらゆる意味で山本にとって予想外のものである。
「え? "カチ"?」
 聞こえた音を意味するところを謀りかねた山本は、困惑に顔を歪ませながら殆ど無意識化でドアの取っ手を掴んだ。そのままノブを回してドアを引こうとしたところで、ガチ、と何かが引っかかるような音がした。
「え、ちょっ鍵!? 今ドアに鍵かけた!? かけたのな!? そうなのなヒバリーって……あれ、てことは今まで鍵かかって無かった!?」
 ガチャガチャ、と回らないノブを上下に扱いながら山本は数分前の己の迂闊さを呪った。雲雀のことだからしっかり戸締まりはしているだろうなと思って確認もしなかったのが恨めしい。
 今度はドアを叩く手にも自然と力が入った。ドンドンと騒々しい音を響かせながら、山本はドアの向こうへ呼びかける。
「ひばりー、開けてヒバリー、ひーばーりー、が鳴くよー空高くー」
「………咬み殺すよ」
「ヒバリ!」
 ドア越しに攻防を初めてやっと聞けたその声に、山本は顔を喜色させた。
「ヒバリ、ほらこの肉じゃが、ヒバリにお裾分けなのな。温かいうちに食べた方がいいんじゃね?」
 ここぞとばかりに山本はドアの向こうにいる雲雀へと嗾ける。見えないことは承知であるが、山本は手にもった肉じゃがを見せつけるように持ち上げた。
 また沈黙が落ちる。
 山本は、待った。
 そしてカチ、と鍵が外された音を山本の耳が拾う。そして次にゆっくりとドアが山本へと開かれた時、山本はこれ見よがしに開いたドアの隙間に足を割り込ませた。反射的に雲雀もドアを閉めようとするが、時既に遅し。割り込ませた足から、山本はさらに半身を引き入れる。
「……君…」
 やっと見られた雲雀の顔には、しっかりと眉間に皺が寄っていた。
 けれど射殺さんばかりに睨み付けられても、山本はへらりと笑って雲雀を見据える。
「昨日みたいにお裾分けだけ頂こうって考えは却下なのなー、先輩」
「……本来、裾分けってそういうものだと思うけど?」
「まま、気にしない気にしない。それよりも、そろそろ閉めるの止めてほしいかなーなんて。丁度ドアに息子が挟まれてて痛――っていだだだだ痛い痛いマジで! ヒバリやめて!?」
「なら肉じゃがだけを置いて部屋に帰りなよ」
 ぐぐっとドアの取っ手を引き寄せながら、雲雀が淡々と告げる。
「肉じゃがは食べたいのな!」
 山本もまた足をその場で踏み留めて、挟みこんでくるドアに抵抗を続けた。
 それからドアの縁にガッと手をのめり込ませ、山本は無理やりに上体をドアの内側へと入り込ませる。上体の殆どが内側に入り込めば、それに続いて山本の身体は転がり込むようにして中に入ってきた。
「…………」
 転がり込んだ勢いで思わず座りこんだ山本の頭上で、雲雀は心底不機嫌そうに唇を噛み締める。
「……僕、そろそろ訴えてもいいと思うな」 
「警察に? ヒバリが? うわ、何か笑えるのな、それ」
 はは、と思わず笑った山本の顎に、雲雀の蹴りが入った。





 山本は手にスーパーの袋を下げながら、自分の借りたアパートの部屋の近くまで来るなり思わず隣人の口癖を真似て驚いてしまった。
 外人がいる。まあ何かと国際社会の現代だ、外人の一人や二人見つけたところで山本も驚かない。それに山本には外国人の友人がいる。じゃあ何に驚いたのかと言えば、その外国人が雲雀の部屋のドアにもたれ掛かるようにして立っているからだ。
 まさか雲雀の友人だろうかと考えて、そんなまさかと首を振る。雲雀に友人。こんなに似合わない言葉もない。
 そんなことを考えているとジッと注がれる視線に気付いたのか、雲雀の部屋のドアにもたれていた外人が山本の方を振り向いた。視線が合う。不躾なまでに見詰めていたので、少々気まずい。すると、外人の方がニコっと笑った。そして。
「Ciao!」
 異国語を話した。
 雰囲気的に、挨拶だ。これは挨拶だろう。
「あ、こんちわ」
 しかし山本は自分が何かを考える前に、日本語で返していた。思わず会釈もしてしまう。
 本当は広く使われていて、まるで万国共通の言語みたいな感じである英語で応えれば良かったのかもしれないが、咄嗟に英語が出てくるほど山本は外国語に慣れていない。元々語学には疎いのだ。けれど外人は特に気にしている様子もなく、ニコニコと微笑んでいる。
 山本は曖昧に笑って応えながら自分の部屋の前まで歩く。そして近くまで来ると、その外人の端整な目鼻立ちに思わず感嘆な溜息が漏れた。
 王子様のようだ、という言葉はこういう人の為にあるのだろう。とてつもなく華やかな顔である。
 山本はしみじみとしながらポケットからドアの鍵を取り出して、鍵穴に差し込もうとした。そこへ、がしっと手首を掴まれた。突然現れた男の手に驚いていると、その手の主だろう低い男の声が山本を呼ぶ。
「ヤマモト?」
「え」
 落としていた視線をあげると、そこには先程の外人が目を丸くして山本の部屋の表札を見ている。それから、山本へと移った。
「もしかして……山本、武…か?」
「え、あ、ああはい。そうッスけど?」
 何故見ず知らずの外人が自分の名前を知っているのかと訝しみながらも肯定すると、ぱっと目の前の外人から花が飛んだ。
 表情が豊かなところは、友人を思い出す。その友人はある一人の人間にしかそんな風には笑わないのだが。
「ああ、やっぱりそうか! ここらに住んでいるのはツナから聞いてたけど、驚いたな。まさか恭弥のお隣さんだったとは…」
「ツナ?」
 しみじみと頷いている外人の言葉の中に親友の名を聞き取ると、その山本の声を聞き取った外人はあからさまに「ああしまった」と言わんばかりに顔を顰めた。それから慌てたように山本の手を掴んでいた手を離して、照れたようにはにかんで笑う。
「悪い、自己紹介が遅れたな。オレはディーノ。ツナ…って知ってるよな? 沢田綱吉」
 紛うことなくそれは親友の名だった。
 肯定して頷くと、外人――ディーノが破顔する。
「オレはそのツナの知り合いっつーか、兄貴分だ。お前の話はツナから聞いてるぜ」
 ニコニコと邪気のない、華やかな笑顔に山本もつられて笑顔を返す。
 何を話されたか気になるところではあるが、表情を見るに悪い話でないのは明らかだ。そういえば、といつぞやの親友との会話へと思いを巡らす。程よく時間を掛けずに見つけた記憶に、山本はあっと言葉が口を突いて出た。
 そして目の前にいる外人に対して半開きの口で間抜け面を晒す。
「"ディーノさん"…か!」
 既に本人から聞いていた名前だが、山本が理解を示した口調を感じとったのだろう。外人ことディーノはにこりと笑って異国語で肯定した。
 個性的な知り合いが多い親友が話す中にたまに「ディーノさん」という言葉が出てくることに気が付いたのである。
「でも、そのディーノさんが何の用でココに?」
 首を捻ると
「ん? ああっ、今日は恭弥に会いに来たんだ」
「……きょーや」
 どこか聞き覚えのある名前に、山本はほんの少し首を横に倒した。その山本の態度にディーノが苦笑する。
「友達じゃあ、なくても知ってはいるだろ?」
 にやり、と苦笑とは違う、腕白をしでかす子供を彷彿させる笑みでディーノは笑った。そしてクイッと指先で、山本の隣人宅の扉を指し示す。
 ……どうやら一番最初の予想は大当たりだったらしい。
 山本の呆気に取られた表情に、ディーノはしてやったりと破顔した。
「きょうやって……ヒバリ?」
「そう、ヒバリ」
 にっこりと肯定される。
 全く、迂闊であった。そういえば「ヒバリ」は名前じゃないんだよな、と今更ながらそんな事を考えた。