雲雀恭弥がその男の顔を覚えるのに、そう時間は掛からなかった。
 だいたいにして雲雀が興味を惹いて止まない赤ん坊、リボーンを視界に入れると十中八九の確率でその男の顔までが目につく。何故ならリボーンがその男の肩を定位置と定めているようで、よくその肩に腰を下ろしているからだ。
 つまりリボーンを探すと、そのへらへらした顔が自然と視界に入るというわけである。何度かそれが続けば、雲雀はこれでも記憶力は人並みにあるのでまず顔を覚えた。
 そして恐らくそれ以前に覚えたのはその男の名前だ。
 雲雀は割り当てられた自身の教室に居るよりも、一般の生徒ならば中学生活の中で早々立ち入ることの無い応接室に居る方が断然に多い。
 そして本校舎の二階に位置する応接室の窓からは、実に様々な音が入り込んでくる。大抵は意味なんてない、ただの雑音だ。けれどその雑音も度が過ぎなければ心地よい音となる。雲雀は大抵その音を耳にしながら、風紀の仕事をこなしたり睡眠をとったりと実に快適に過ごしていた。
 しかし度が過ぎる、ということは結構頻繁にあった。授業を終えた休み時間などが大概であるが、時にそれは授業中にも及ぶ。
 体育の時間だ。女子もよくよく群れをつくる生物であるが、その実普段は一人一人向ける意識は多方面へと向けられている。けれど時偶に、その意識が一つにまとまることがあった。
 そんな時は必ず雑音が生まれる。
 種目は多々あるが、授業が試合形式に打ち入るとその甲高い猫撫で声はよく応接室の窓を叩いた。
 雲雀は群れる上にそんな雑音を立てる彼女達を咬み殺してやりたいと思うが、わざわざ校庭まで行くのも面倒に思えて結局は窓を閉めるだけに留める。布は音を吸収するというから、カーテンも引く。
 しかしそんなことが何度も繰り返されれば、やはり自然とその群れが呼び叫ぶ人物の名前を覚えてしまう。
 考えてみると、つまり雲雀はその男の存在を結構前から認知していた事になるのだろう。けれど実際に雲雀がその名前と、リボーンと共に視界に入ってくるその男の顔を一致させたのはつい最近のことだった。
 それは何故か。その答えは簡単だ。最近、何故か頻繁にその男と相見るからだ。
 並盛を牛耳っている雲雀に近づく者はそういない。大抵は畏怖し、雲雀の姿を目にするなりその場を離れようとする。噛み付いてくる者もいるが、そういう場合雲雀は嬉々として咬み殺してきた。
 だから風紀委員という例外を外せば、雲雀に自ら近づく者は何か胸に一物ある者くらいだ。しかしその男はそんな様子を微塵も見せず、ただへらへらと笑っている。
 男との接触を、覚えているものの中で一番古い記憶を思い浮かべてみると、それは学校の廊下だった。
 学生の大半は一日を学校で過ごすものだから、それは大して可笑しくはない。可笑しいのはその男の態度だ。
 顔を青ざめて怯えるでもなく、歯を剥き出しに噛み付いてくるわけでもなく、ただへらへらとした顔で。
「よっ、ヒバリ! 今日も良い天気なのなー」
 と。
 軽薄な挨拶と共に、まるで友人に対するように、心底どうでもいい事をすれ違い様に言ってきたのだった。
 次に覚えているのは校庭、下校時に雲雀が群れを咬み殺していた時である。
 男は学校指定の制服を着ておらず、部活のユニフォームを着用していた。取り損ねた球を追ってきたのか、転がり込んで来た小さなボールに続いてその男は姿を現した。
 無事に小さな球を手に入れた男はそこで初めて雲雀に気が付いたように、一瞬目を見開く。
 雲雀の周りには先刻咬み殺したばかりの群れが地に伏せていた。その惨状は世間一般では「やり過ぎ」と批評されるもので、無様に倒れている群れたちの姿は同情を誘うものでもあっただろう。
 男は一度目を瞬かせてから、困ったように頬を掻きながらその悲惨な惨状を見渡した。けれど不可解なのはその後で、男は雲雀に視線を向けたと思うとまた例の如くへらっと笑ったのだ。
 そして多分、常人ならば正気を疑うようなことをサラリと告げてくる。
「ヒバリは今日も元気良いのな! でもあんま、やんちゃすんなよ」
 もしこの場に男とよく共にいる草食動物の一人が居たならば、実に小気味よい加減で的確にツッコミを入れてくれたことだろう。だがその時その場には例の草食動物はおらず、男は「それじゃあな」と勝手に言いたいことを言うだけ言って部活動へと戻って行ってしまった。
 そういったことが何度か続き、そうして雲雀が本格的にその男を訝り始めたのは、その男が応接室にまで現れるようになってからである。
 黙々と風紀の仕事をこなしていた雲雀の元に、ノックもなく勢いよくガラリと応接室の扉が開かれた。不躾な訪問者に雲雀は躊躇なく、手にしたトンファーを扉に向かって投げつける。
 油断していた訪問者及び侵入者は、そのトンファーの餌食となった。
 くぐもった悲鳴に続き、例に漏れず間の抜けるような顔が応接室の扉から現れる。イテテテ、と恐らくそこにトンファーが当たったのだろう。顎を押さえながら、男はずかずかと応接室に入って来た。
 トンファーの迎撃に遭い尚も応接室に入り込んでくる度胸は称賛されるべきかもしれないが、雲雀はその男の神経の図太さに舌を打った。さらに自分の顎を打ったトンファーを、わざわざ掴んで持ってくるのも何か気に食わない。
 だがその男はそんな雲雀の様子など気に掛けてもいないようで、雲雀と目が合うと必ずヘラリと笑った。
「ヒバリ、手出して」
 さらにそんなことを言う始末。
 雲雀はじ、と男の真意を見極めるかのように、男を見据えた。けれど男はへらへらと笑うだけで、雲雀にはその男の考えが全くわからない。
 見据えてくるだけで手を出さない雲雀に、男が無遠慮に雲雀の手を掴んできた。咄嗟に振り払おうとするが、それが想像だにしなかった出来事に対処が遅れて――振り払おうとした手が止まる。
 男の手の平から、雲雀の手の中に落とされた小さな固体。
「さっきさ、女子に貰ったから。ヒバリに上げようと思って!」
 何てことはない、手の平に乗るのは飴玉だった。
 男は雲雀にそれを渡すことだけに満足しているようで、他に他意は無いように雲雀には見える。だけどそれだけに不可解だった。
 雲雀が眉をひそめると丁度そこへ休み時間の終了を告げる予鈴が鳴って、男は慌てたように応接室を出て行った。
 男が何を考えているのか解らなくて不可解だった。
 だけど男が何を考えていたのか解っても、やはり不可解だった。
 ――女子に飴を貰ったから、僕に上げようと思った? 何だそれは。
 あまりにも不可解で、不愉快である。
 そしてそれは"今"も変わらない。男は相変わらずへらへらした顔で図々しく応接室に居座って、雲雀の機嫌を否応無しにも下げていく。
「…ねえ」
 機嫌の悪い低い声音で呼びかける。
 するとその男は飼い主に呼ばれた従順な犬らしく、待たせることなくその顔を雲雀に向けた。何故かその顔は晴れやかだ。本当に意味が分からない。
「君、なんなの…?」
 本当に。応接室に現れては何かをする気配もなく、ただへらへらと笑いながらソファに腰を落ち着けて。……一体何がしたいのか。
 しかしその雲雀の言葉を聞くと、その男はへらへらと笑う顔を止めてしまった。きょとんと不思議そうに見つめてくる。そして言葉の意味を考えるように首を傾げた。
 暫くして答えを見つけたのか、ぱっと顔が上げる。そうして雲雀を見て、やはりヘラリと笑った。
「オレ、山本武って言うのな!」
 その、あまりに馬鹿馬鹿しい答えに、何かを言う気も失せて雲雀はトンファーを握った。そしてそのまま、そのへらへらした顔に向かって投げつける。
 この男の真意なんてものは相変わらず不可解で不愉快極まりない。
 けれどここ数ヶ月の間で、とりあえずこの男が救いようのない馬鹿だということは――嫌でも分かった。




2008/1/20 脱稿