ペットは家族である。
 始めのうちこそ「動物を飼う」という行為に毎日の世話の面倒や病気や怪我といった不安に揺れていた綱吉であるが、けれどそれも二月も過ぎれば否応にも慣れ、振り返ってみればソレは何よりもかけがえのない存在となっていた。家族や友達にも言えないことを、そのペットにだけは言える。むしろ世情に関係ないだけ、無条件に愛情を注げる存在だった。ドラマやバラエティ番組でペットに話しかけるその人に対して寂しい人だなとヒいてきたことを、是非とも詫びさせていただきたい。すみません、俺が間違ってました。愛しのペットと二月を過ごした綱吉は切実に思う。
 そんなこんなで綱吉のペットは、黒いしなやかな肢体をした猫だ。
 買ったわけでも貰ったわけでもなく、拾ったのである。怪我をしていたその猫を拾い、近くの犬猫病院へと運んだことが始まりだった。半ば無理やりに医師によって最低怪我が治るまでは面倒を見てやれなんて言われ、命じられるがままに世話をすること二ヶ月間。綱吉はすっかりその猫に魅了されていたし、猫も怪我が治った後も我が家のごとく気付けばそこに居た。
 リボンの類は付けていない。一度付けようと思ったら思い切り引っ掻かれたので辞めたのだ。それにウチの猫はそんなものが無くても十分に可愛いし美人である、と本気で思ってから綱吉は自分には親バカの気があるのではないかと少し我が身を心配になったけれど、結局は本当のことなのだから仕方ないと早々に思考を放棄した。
 可愛い可愛いとその美しい黒い毛並みを撫で回すのは日常だ。
 けれど、あくまでそれは黒い肢体をした猫の話。
「……うそだ」
 呆然と、無意識に言葉を呟いてから綱吉は額を抑えて俯いた。
「ありえないありえない。え? てか何これどんな夢? ん、夢? あそっか夢、夢だよな。はは。そうだよそうそう、というか俺なんつー夢見てるんだろ。あー今すぐ目を覚めなくっちゃあははは」
 のそりと膝を起こして、虚ろな瞳のままベッドに身を沈める。
 その綱吉へ、冷淡とも取れる声音が降り注ぐ。
「――ねえ」
「これは夢これは夢これは夢これは夢。若しくは幻だから! お願い、早く夢から覚めて俺! マジで!」
 毛布を頭までしっかり被って切実に祈る綱吉であるが、その願いは無論叶えられることなかった。それどころか綱吉のシールドを作っていた毛布が恐ろしく強い力で引っぺがされ、絶対防御の代わりに絶妙な重さが綱吉の上に乗る。
 綱吉はあまりの恐ろしさにぎゅっと目蓋を瞑った。けれどそうした後に優しいともいえる仕草で触れる、綱吉の額にかかる髪を梳かす指先に意識が集中する。頬を撫でるような仕草は綱吉にはこそばゆく、身体がむず痒い。次第に身体の強張りが解けていき、緩み始めた綱吉の緊張を「そいつ」は逃しはしなかった。
 喉元に伸ばされた手と、綱吉のすぐ耳元、穏やかな低音の囁きが襲う。
「いい加減にしなよ、綱吉」
 声音は穏やかなのに、伝わる雰囲気はそれとは真逆。
 一瞬にして、綱吉は硬直した。
「現実逃避は見苦しいんじゃないかい」
「……は、はひ。すみません」
 咄嗟に謝るものの、思考は完全にストップ。
 ああ、何だこれ。何だこの悪夢!
 ちらりと目線を上げた綱吉はすぐ近くにある端整な顔を振り返った。
「あの」
「なに?」
 呼びかけると、ほんの少し機嫌を損ねた男の返事が返る。綱吉はその端整な顔から視線を逸らし、自然と熱を持つ頬をシーツに押しつけた。
「服を、着てください…!」
 ベッドの上で全裸の男に組み敷かれているという状態に、今更ながら綱吉は頭が痛くなった。けれど綱吉を組み敷いている男はというと、けろりとした表情でこの状況に何も違和感は持っていないらしい。
 ただ不遜ともいえる態度で(それはもう君臨した王のように)綱吉の服を要求してきた。
 綱吉は内心憮然としながらも暫し考えた末に下着とスウェットの上下一式を差し出すことにした。
 男はそれを受け取ると恥ずかしげもなく着替えを始め(まあ男同士だといえば男同士だけれど)、その間に綱吉は事の経過に思いを馳せる。少しでもこの混乱した頭が収まればと思ったのだ。
 そう、今日は家族である愛しの猫の機嫌が良かったのである。呼べば素直に近寄ってきたし、綱吉と一緒にテレビ鑑賞もしてくれた。撫でても引っ掻くどころか、頭を擦り付けてくる始末。これならば抱っこも許してくれるかもしれないと下心を抱いた綱吉は、決して悪くないはずだ。そして大人しく腕の中に収まってくれた時の、あの感動は言葉にできやしない。綱吉は愛くるしいその家族を抱きしめ、溢れる感動のままキスをした。
 なんてことはない、愛玩動物との些細な接触のはずだ。
 はずだった。
 しかし現実は、黒いしなやかな肢体から不自然な煙が沸き上がり、綱吉の腕に抱えられる重量が増えてずしりと支えられなくなる。そうして手放して煙幕のような煙がすっかり空気に溶けた後、綱吉の目の前に現れたのは愛して止まない黒の肢体ではなく、綱吉と歳の変わらない全裸の男だった。
(――っ、ありえない!!)
 あまりに日常から掛け離れた出来事に、綱吉の目にうっすらと涙が浮かぶ。その涙を拭ってから、綱吉は当に着替えを終えた男を振り返った。
「きちんと、説明してくださいよ!」
「君、よくそうコロコロと表情が変わるよね」
「話を聞けぇぇ――!!」
 感心したように嬉しくないことを指摘され、綱吉はキッと男を睨み付けた。
「うちの”ヒバリ”さんを一体どこにやったんですか!?」
 精一杯に脅しをかけるような怖い顔で睨み掛けて畳み掛ける。けれど、その綱吉の言葉を聞いた途端に男が呆れたような視線を綱吉に投げた。
「だから僕がその”ヒバリ”だよ」
「嘘つかないで下さい! ヒバリさんは猫ですよっ」
「嘘なんて吐いてない。それに君、前から思っていたけど猫に”ヒバリ”っておかしいよ」
「あ、あなたには関係ないでしょう!?」
 知り合いにも何度もからかわれたネタを目の前の男にも言われ、綱吉はカッと顔を真っ赤に染めた。綱吉なりに一蹴したつもりなのに、男は何て事のないように切り返す。
「何言ってるの、僕の名前だよ」
 関係は大ありだと告げる男と、綱吉は暫し睨み合った。男の視線は揺るぎない。しかし綱吉の方はというと、そうでもない。何と言っても決定的瞬間を目にしてしまっているのだ。
 男との睨み合いから視線を外した綱吉は、勢いよくベッドに突っ伏して頭を掻きむしった。
「――うぅっ、なんで…」
 歯がゆさに唇を噛み締める。
「ひどい落ち込みようだね。そんなにショックかい」
「…ショックです」
「こっちが本来の僕の姿なんだけど?」
 綱吉の反応をからかうような声音に、ジトと恨みがましい目で男を睨め付ける。
「なんで猫の姿なんてしていたんですか?」
 憮然とした口調のまま尋ねると、男は綱吉の横に腰を掛けた。その姿勢は見本のように真っ直ぐで、どこか気品がある。濃厚な闇を吸い取ったような髪の色は、綱吉のよく知る黒猫のものだったのが忌々しい。
 男は睨み付けてくる綱吉など露ほどにも気に掛けておらず、淡々と問いの答えを口にした。
「薬でちょっとね」
 一瞬、何を言われたのかよくわからなかった。
 きっかり十秒をかけて理解した綱吉は、その答えに鼻白む。
「嘘をつくなら、もう少しマシな嘘をついて下さいよ」
「嘘じゃない」
「……だって、そんなものあるわけないじゃないですか」
 真っ直ぐに見詰められ、綱吉は拗ねた子供のように頬を膨らませた。その様子に男の表情がほんの少し和らぐ。
 綱吉の手の平よりも均整の取れた手が伸びてきて、くしゃりと綱吉の柔らかい髪を撫でていく。それに、ますます口を尖らした。頭を撫でるのは、いつも綱吉が”ヒバリ”にやっていたことだ。
「君の知る世界には無いけれど、僕の知る世界には確実に存在する。希少価値の高い珍しいものだけれど」
「理解できません」
「べつに理解してくれなくてもいい。ただ僕は不本意ながらも薬を飲まされ、猫になってしまったところを君に拾われた。そして今さっき君のキスで元に戻った。これは君が理解しなくとも紛れもない事実であるということには変わりない」
 『キス』という言葉に、綱吉はびくんと身体を震わせた。その過剰な反応に、男の瞳は愉快そうに笑む。
「もちろん、ただキスで薬の効力が消えたわけじゃないだろうけどね」
 その言葉に、綱吉は瞬時に自分がからかわれたことに気付いた。
 頭を撫でる手を払い除け、ベッドの上に身を起こした綱吉は憤然と男を睨み付ける。
「それじゃあ元の身体に戻った事ですし、あなたは当然、自分の家に帰るんですよね」
「その事だけど、僕は暫くはまだ君の世話になるつもりだから」
 既に決定事項と言わんばかりに告げられた言葉に、綱吉はぽかんと口を開けて惚けた。
「は、あ!? 何で!!」
「いいでしょ。拾ったものには最後まで責任を持てと言われたじゃないか」
「そ、それは……っていうか、俺が拾ったのは猫ですから!」
 二月も前に医師に言われた言葉を持ち出され、綱吉は苦虫を噛み潰したように顔を歪ませて抗議した。しかし男は聞く耳を持たず、綱吉は今度こそ頭を抱えこんだ。
 けれど数分と経たずに抱え込んだ頭は解放して、綱吉は深々と溜息をつく。
「とにかく、今日はもう寝ます」
 明日も学校なのだ。こんな事で精神力を使い果たすわけにはいかない。良い事とは言えないが、諦めることには慣れている。
 疲れて亀のような鈍さで綱吉はまた布団にくるまった。掛け布団を口元まで引き上げながら、ちらりとベッドの端に座る男を見つめる。そういえば、と口を切った。
「名前は?」
「…なに?」
 ぼそりと呟いた言葉は布団に被れて聞き取りづらかったらしい。首を傾げられる。
「だから、名前は何て言うんですか?」
 元々が人間だというのならば、付けられた名前があるはずだ。それを尋ねたはずなのに、男はコトンと首を傾げたあと、 「”ヒバリ”」  綱吉が勝手に黒猫に付けた名前を告げてきた。
 眉をひそめると、男の手がまた綱吉の髪に触れる。
「ヒバリでいい。案外、嫌いじゃないから。その名前」
 そして綱吉の前髪を掻き上げて、露わになった額に口づける。あまりにも自然に行われたその動作に、綱吉は唖然として「ヒバリ」を見上げた。
「おやすみ」
 ヒバリは呆然とした綱吉の様子を気にもとめず、綱吉の髪を撫でつけてから席を立ち、勝手知ったる我が家のようにパチンと電気を消した。




2008/3/22 プログより脱稿
のち、所々修正