「ああ、ヘルメス」
 背後から声を掛けられて、ヘルメスは振り返った。
 振り返った先には女神が一人。しかしよく見知った姿とは対照的に、その腕に抱え込まれているのは不似合いな葡萄酒が入った瓶、数本。
 ヘルメスは一二度瞬きを繰り返してから、ゆっくりと首を傾けた。
「どうかしたんですか、アテナ」
「ん? ああ、これか」
「一応言っておきますけど、今はまだ昼真っ盛りですよ」
「言われなくとも解っているよ、どこぞの酒浸りの神じゃないんだ」
 やや眉をひそめてアテナが言う。
 ヘルメスは肩を竦めてから、再度彼女が抱える酒瓶を見つめた。
「それで、どうかしたんですか。それ」
 頭が堅いともいえる、典型的な優等生であるアテナが昼から持ち運ぶものではない。そこでふとヘルメスの脳裏にとある単語が浮かびあがった。
 没収…?
 有り得なくもない。
 しかし、目前に立つ女神からは思わぬ返答が返ってきた。
「いやなに、これからアポロンのところへ行くからな」
 ヘルメスは、演技でも態とでもなく、心底驚いた。瞠目して女神を見据える。
 そして思わず口から言葉が零れ落ちた。
「――えっ、密会?」
「その耳を引きちぎってやろうか、ヘルメス」
「いえ、遠慮しときます。……ええー、でもじゃあ、賄賂?」
「何故そうなる」
 第一アポロンに賄賂を送って私に何の得になると?
 ……確かに。
 しかしそうなると益々アテナが酒を持ってアポロンの元へ向かう理由がわからなく、ヘルメスは本気で眉間に皺を寄せた。
 するとヘルメスが本当に困惑していることに気が付いたのだろう。不機嫌に細められていた眼を緩めて、ヘルメスを見つめた。
「その様子だと本当に知らないのだな。早耳のお前にしては珍しい」
「…ここ最近はずっとデメテル様のところでしたからね」
 その言葉にアテナは納得したようにああと頷いた。
「もうそんな時期か」
「ええ、そんな時期ですよ。全く、どうして毎年毎年、僕が説得しなくちゃならないんだか」
 ふう、とヘルメスにしては重い溜息を吐き出した。
 毎年この時期になるとデメテルの娘ペルセポネが盟約に基づき、冥界に赴くこととなる。デメテルにしてはこれは不本意極まりない結果なのだが、盟約は盟約だ。彼女の最愛の娘は冥界に行かねばならない。それにも関わらず、デメテルは毎年といっていいほど娘を冥界へ送ることに拒むのだ。自然ペルセポネを冥界へ送る役目を担うヘルメスに、説得というその役目が回る。
 最初の数年は母子共々で、それはもう尋常でなく気が重かったのをヘルメスは今でも覚えている。(それは恰も家族の為に身請けの覚悟を決める娘と、それを拒む母親の図の様)(あながち間違いでもない)それでも最近は心境の変化か、ペルセポネ自身が冥界の王と共に居たがるので以前ほど気が重くなるようなことはないが。
「デメテル様もいい加減、潔く送り出してくだされば良いのに」
 反対にハデスは実にあっさりとペルセポネを地上に返す。そんなハデスの様子に最近ペルセポネが不安な表情を浮かべることも、ヘルメスは知っているが。
 去年のそれを思い出しながら、こちらが赤面するほどに初々しい恋愛を繰り広げる二人に近々ようやっと発展もとい一波乱がありそうだと、ヘルメスは自然と口端をゆるく上げた。
 そのヘルメスの様子を一部始終見ていたアテナは、小さく息を吐き出す。
「口がにやけているぞ」
「あはは」
「先程まで珍しく愚痴を吐いていたと思えば、…今なにを考えていたんだ?」
「気になりますか」
「それは、お前の考えることだからな」
「あれ、もしかして今の愛の言葉ですか?」
「やっぱりその耳、削げ落としてやろうか」
「じょ、冗談ですって冗談」
 だからアレスのように活き活きと獲物に手を伸ばすのは止めてほしい。
 冷や汗が首の裏を伝いながら、ヘルメスは幾分か引きつった笑みを貼り付けながらアテナの注意を逸らした。
「それで、何でアテナはアポロンのところに?」
 そう訊ねるとアテナは一瞬据をつかれたようにきょとんとヘルメスを見据えてきた。それからああと思い出したように一つ頷いて、剣の柄に触れていた手は身体の横に下げられる。
「アポロンがまた振られたからな、アルテミスと励ましてやろうかと」
 告げられた言葉は、またしても意外なものだった。
 今度はヘルメスがきょとんと首を傾げる。
「それだけ? アポロンが振られるのなんていつものことじゃないですか」
 我らが光明神には悪いが、彼の神が女性に振られるのは本当に"いつものこと"である。
 アテナもそんなヘルメスの言葉に頷いて、しかし少し困惑したように眉を顰めた。
「私もよく解らないのだが、ひどく落ち込んでいるらしい。アルテミスが言っていた」
「アルテミスが?」
「ああ。なんでも部屋に閉じこもって愛って何だとかなんとか自問しているらしい」
「それは…」
 不気味だ。
 思わず体育座りで部屋の片隅に座り込んで自問自答している姿を想像してしまい、ヘルメスはアテナから視線を宙に投げた。
「あなたの愛は偽りだわ。だってあなたは私を永遠に愛してはくれないでしょう」
 唐突なアテナの言葉にヘルメスは瞠目してアテナを見つめる。
 心持ち、引く。
「え、何ですかそれ」
「こういう風な台詞を例の女性に言われたらしくてな」
「……なるほど」
 人間らしい言葉である。永遠なんて、確証もない約束がそんなに欲しいのか。
 どのみち人と神では寿命に大きな差があるのだから、約束の正否などその娘に解るはずもない。第一、そんなものは口約束であり、ちょっとした戯れだ。その娘だって本気で聞いていないだろう(多分)一言「愛している」と言って欲しいだけなのだ。
 だが真面目なのか馬鹿なのか、光明神は考え悩みこんでしまい返事を返せなかったのだろう。
「アポロンも大変だなぁ…」
 思わず呟くとアテナが頷いた。
「そうだな」
「……アテナが付き合ってあげれば?」
「……何故そうなる」
「じゃあ僕と付き合いましょう」
「死ね」
 一蹴である。
 アテナは自分が呼び止めたのも忘れ、ヘルメスの横を通り抜けていった。肩を竦めてその後ろ姿を見送っていたヘルメスも、暫くして自分の仕事をやるべく身を翻す。
「ヘルメス」
 しかしまたしても名を呼ばれ、ヘルメスは首をひねって顔だけを振り返った。
 回廊の先でアテナが半身だけを翻して、ヘルメスを見据えている。
 なに、と首を傾けてヘルメスはアテナに先を促した。
「仕事が一息ついたら着たらどうだ。四人で飲むは久しぶりだろう」
「…そうだね」
 ここ最近溜まったストレスをアポロンにぶつけるのも面白い。と光明神にとってはとても有り難くないことを考えてから、ヘルメスはアテナの提案に頷いた。
「いつまで居るんです?」
「とりあえず夕食はよばれるつもりだ。アルテミスが夕餉をつくると張り切っていたからな」
「…なんで?」
 アテナが居るからだろうか。アルテミスはアテナに憧れている。
 しかし当のアテナはさらりと爆弾発言をする。
「オリオンが来るらしいからな」
 ――ああ、そりゃあ好きな人が自分の手料理を食べることになるなら、アルテミスだって張り切るよ。
 けど。
「……オリオンって、」
 なんでそんなことに。
「ほら、彼はもてるのだろう?」
 絶句するヘルメスに構わず、アテナはそんなことを言う。そう言う彼女も困り顔である。その表情から、オリオンを呼んだのはアテナではなくアルテミスなのだとヘルメスは理解した。
 なんといっても火に油、アポロンにオリオン、である。
 聡明な彼女がそんな愚行を犯すはずもない。アルテミスはアポロンとオリオンの仲を彼女なりに取り持とうとしているかもしれないが。
 ――まあ、それならそれで面白い。いやむしろこっちの方が面白い?
 ヘルメスはすぐに思考を切り替えて憤然と顔を真っ赤にしているアポロンを思い浮かべ、にやりと笑う。そしてアテナには朗らかな笑みを浮かべて言った。
「わかりました。それじゃあ、仕事を片付けてから向かいますから。それまでアポロンを宜しくお願いします」



2007/11/2 プログより脱稿