ばさり、と背の大きな翼をはためかせ、虹の女神はオリュンポス山の峰へと足を落とした。
 山頂の峰には、彼女が知る中で最も美しい神の住まう建物が聳え立っている。
 女神は翼をたたんで、その偉大な社の中へと潜っていった。

 ヘルメスの機嫌は、すこぶる悪かった。
 オリュンポスの峰に建てられた館の回廊を仏頂面で歩く。普段の彼を少しでも知る者は訝しみ、また知らずとも彼が纏う空気に周囲の神々は足早々と去っていった。
 そんな周りのことなど気に掛けもせず足を進めていたヘルメスは、しかし不意にその歩みを止めた。
「憧憬の神は、専らゼピュロス様とイリス様の子と噂だな」
「ああ。しかし、俺はイリス様は処女神だと聞いたことがあるのだがなァ」
 回廊の端にて、低位の神二人がここ最近注目を集めている噂に華を咲かしていた。
 ヘルメスの視線が、その二人へと向く。
 周りで伝令神の機嫌の悪さをいち早く察していた神々は、間の悪いその低位の神たちを心の内で罵り、また同情した。しかし周囲の注目を浴びている神たちはそれには気付かない。
 傍らの神から、虹の女神の処女説を聞いた男神は同意するように頷き、そして揶揄の響きを含めて言った。
「まあだが、イリス様も女を捨てていなかったということだろう」
 その神の言葉は傍らの神の失笑を買った。
 低位の神たちにとって、それは何でもない談笑である。否、何でもない談笑であった。次の、その瞬間までは。
「やあ、楽しそうだね。何を話しているのかな?」
 先程までの仏頂面が嘘かのように、煌びやかな笑顔を浮かべたヘルメスが彼らに声を掛けたのである。
「へ――ヘルメス様」
 ヘルメスは伝令神であれ、十二神中に数えられる一人だ。
 もちろん普段から付き合いがあるわけがなく、ましてやこのように声を掛けられることなど滅多にない。低位の神たちは思わぬ事態に頭を真っ白にしたが、微笑む神を前に背筋を伸ばした。
「い、いえ。御方がお気になさるようなことは何も」
 一人の神が緊張で上ずった声で言うと、隣に佇む神がしきりに深く肯く。
「――そう」
 ヘルメスは深くは追求せずに、二人の神を見据えた。
 じっと顔を覗かれる二人は互いに居心地の悪い思いをし、身じろぎする。頭の中は相変わらず真っ白だった。上手く物を考えることができない。
 しかしそんな二人などお構いなしに、ヘルメスはにっこりと笑った。
「二人とも、大事な物は無くさないよう、気をつけた方がいい」
「は……?」
「そうだ、身に付けておくといいよ。肌身離さず、ね」
 それを嘲笑と呼ぶのか、人の悪い笑みと呼ぶのか。彼の異母兄や異母姉たちならば、人を食った笑みだと答えるだろう。
 ヘルメスは、心底愉快だと言うように――あるいは小鳥が歌を囀るように、笑った。
 後に二人の神々は、彼の者が盗人の守護神であることを思い出し、顔を青ざめた。そして各々の『大事な物』を、目に見える範囲に必ずや置いたとのこと――。
 それが結果として、彼の神の言葉どおりとなったとしても、二人の神々に思いつく対処法はそれぐらいしかなかったのである。
 それはさておき。
 伝令神の機嫌を際限なまでに損ねているのが、その「噂」であった。
『憧憬の神ポトスは、西風の神ゼピュロスと虹の女神イリスの子である』
 真相の程を、ヘルメスは知っている。答えは否だ。
 本当のところ、憧憬の神の両親は最高神であり自らの父でもあるゼウスと美の女神であるアプロディテなのである。
 しかしゼウスは、この情事のことを隠そうとした。妻であるヘラを何よりも恐れてだろう。
 そして白羽の矢が立てられたのが、西風の神と虹の女神であったのだ。
 ゼウスは進んでその噂を広め、今では神々だけでなく地上の人間たちの間でさえ囁かれてさえいる。
 ヘルメスは大抵がゼウスの相談役であったし、アテナやプロメテウスのようにゼウスの女性関係にあれこれ言うつもりもなかった。だが、今回の所業には流石に腹が立っている。
 それもゼウスが、白羽の矢を立てた相手が問題であった。
 そうでなければヘルメスは、今回のことも傍観者に徹して愉しんでいたことだろう。――そう、イリスでさえなければ。
 ヘルメスはイリスに好意を抱いていた。"姉"としての親しみならば、異母姉たちよりも上だろう。そのうえ同業であり、その先輩だ。世話になったこともある。
 そして好意は好意でも、白羽の矢が立てられたのがアテナやアポロンであったのならば、こんなに気分を損なうこともなかった。むしろやはり、からかう方へとまわるだろう。アポロンならば今更新しい女性との関係を持っていてもおかしくはないし、アテナならば噂に屈するほど大人しい性格ではないからだ。
 だが、イリスは違う。案の定、彼女は否定もしなければ肯定もせず、噂になんの対処もしていない。だから、噂を信じる者が多くあらわれるのだ。
 ヘルメスは知らずのうちに下唇を噛み締めた。
 だいいち、何故ゼウスはアプロディテとの情事を黙るだけでなく、隠そうとしたのか。考えてみれば、好色な父と美の女神との間に何もない方がおかしいではないか。
 入らぬ知恵をつけた父と、その噂を囁く者と、なによりも何も言わないイリスにヘルメスは苛立っていた。
 ヘルメスは下唇を噛むのを解き、落としていた視線を上げた。回廊の先には、背に大きな翼を持った女神がこちらへ向かって歩いてくる。
 女神はヘルメスから距離をとって立ち止まり、腰を折って頭を下げた。綺麗な、慣れた動作である。
「お久しゅうございます、ヘルメス様」
「……イリス」
 思わぬ女神の登場に、ヘルメスは一瞬唖然とした。
 しかし女神、イリスはほんの少し口元を綻ばせた。彼女には珍しく、からかうような口調でもある。
「先程、顔を青ざめた方々と行き違いましたよ。大変慌てていたようですが……、ヘルメス様がいじめられたのですか?」
「まだ何もしてないよ」
「まだ、ですか?」
「もちろん」
 しれっと答えると、イリスがくすくすと笑った。
 イリスは変わらない。噂による疲労も感じられない。それに、ひどく腹が立った。
「噂、聞いてるよ」
「……そうですか」
 静かな声が返ってくる。けれどやはり、疲労の色が見えない。
 疲労を感じていないはずがない。噂に対処しなくても、事実であれ、虚像の噂であれ、心労は溜まるはずだ。なのに、見せない。自分にも、その疲労を見せてくれない。幼い頃から彼女の頼りにされるよう頑張ってきたが、結局なにも変わっていなかったというわけだ。
 ――あるいは、彼女の中で自分はいつまでも幼いままなのか。
 そう思うと、さらに腹が立ってきた。
「なんで否定しないの?」
 暗に自分は噂の事実を知っているという言葉を含んで、イリスに聞く。
 しかしイリスは曖昧に、少し困ったように微笑むだけで何も言わない。
「――西風が好きなの?」
 呟いた言葉にヘルメス自身が驚いたが、それを押し隠して返事を待った。
 好きな人と一緒に噂されるのならば、それは嬉しいかもしれない。疲労なんてないかもしれない。
 そう考えればわざわざ否定しないのも、納得はいく。だがそれはそれで癪に障った。
 イリスはほんの少し驚いたように目を見開いてから、首を振る。
「確かにゼピュロス様に好意は抱いておりますが、ヘルメス様の仰るようなものではございません」
 とりあえずその言葉に、ヘルメスは内心だけでほっと息を吐き出した。
「じゃあ、どうして?」
 たずねると、イリスはやはり困ったように微笑むだけだ。
 しぼんだ怒りがまた湧き上がってくる。
「ヘラ様は、噂の事実をご存じだよ」
 咎めるように言う。
「奥方様は賢い方でございますから」
 むしろ誇りだと言うばかりに、イリスの微笑みは晴れやかだった。
「――バカ!」
 思わず、声を張り上げる。
「もう、バカ。ほんと、バカ」
 イリスは、何もわかっていない。いや、わかっているはずだ。だからこそ、バカ。救いようのない、大バカ。
 ヘラは確かに賢い。もう既に憧憬の神がゼウスとアプロディテの子供であることを知っていた。だからこそ、イリスが噂に対して何も対処せず、また否定もしないことが問題なのだ。
 ゼウスを、或いはアプロディテを庇っていると思われても仕方ない。
 ヘラがゼウスの愛人に対して厳しいのは誰もが承知だ。そして怒れる女神の怒りは、愛人だけに及ぶものではない。そもそもがイリスは、ヘラ専用ともいえる使者である。
 ヘラからしてみれば、自分の使者が夫の浮気を公認し、なお自分に隠している――そう見えるだろう。
 そして事実、そうなのかもしれない。イリスは、そういう性格だ。
 だから、救いようのないバカ。
 裏切られたと思ったヘラは、怒りをイリスへと向かうのではないか。そう思わずにいられない。イリスがヘラを心から慕っていることを、ヘルメスは知っている。だからこそ、やるせない。
 また下唇を噛み締める。
 そんなヘルメスの様子に、イリスが困ったように首を傾げ、微笑んだ。それから、暫しの沈黙の間にイリスはまた腰を折った。やはり、普段から慣れた仕草の、綺麗な動作である。
「ヘルメス様、これでお暇させていただきます」
「……ヘラ様のもとへ?」
 当てずっぽうで訊ねると、イリスから肯定の笑みが返ってきた。思わず肩をすくめる。
 ――全く、本当に、苛つくなぁ。
 思い通りにならないと、ヘルメスは深々と息を吐き出した。



2006/12/?? 脱稿