洞窟の中は嫌いだ。
裸足が冷たい地面の上を踏みつける。その足を止めるかのように、岩と土が混じり合った地面はいつも凹凸だ。
不意に少年の足が地面に足を捕られ、受け身もとれずに転がった。それでも大地は優しく少年を抱きかかえたが、地面は固く、少年のスミレ色の瞳には涙が溜まる。
少年は手の甲で熱くなった目頭を押さえた。
泣くことは嫌いだ。
少年が泣くと、ニンフ達が少年のそれよりも大きな音を立て踊り歌い、武器を手に騒ぎ立てる。声を張り上げ、武器をかち鳴らし、笑い踊り歌う。異常なまでの、騒音。
そんな時の彼らが嫌いだった。だから泣くのも嫌い。
打ち付けた身体の痛みを堪えて、少年は洞窟の入り口に向かった。擦り剥いた膝がジンジンと少年に痛みを訴える。それに、また目頭が熱くなった。けれど唇をぎゅっと噛み締めて、痛む足を引きずって進む。
「ゼウス、どこへ行くの」
不意に心地よい声音が洞窟に響いて、少年の足を止めた。
名を呼ばれ振り返った少年は、泣きそうだった顔を更に歪め、痛む足も忘れてその女の元へ駆け寄った。そのままたっぷりとしたチュニックに顔を埋める。
「外へ行ってはいけないよ」
女は大地色の瞳を慈愛に満たして、少年の銀糸に輝く髪を丁寧に梳かしながら言った。少年はさらにぎゅっと女の服を握りしめる。
「……ばあちゃん」
声を震わせた少年の呼びかけに、女が応える。
「なんだい?」
その声音は優しく、孫を愛おしむ祖母のものだ。
――唯一肉親であるこの祖母が、洞窟よりも泣くことよりも嫌いだった。そして同じくらい好きだった。
祖母のチュニックを握りしめたゼウスの唇が震える。突如、破壊的な衝動が少年に襲いかかった。心臓が早鐘を打ち、血が血管の中を激しく波立つ。興奮。冷たかった手が一瞬にして熱を持った。
壊せ。壊してしまえ。全てを。
「ゼウス、外へ行ってはいけないよ」
だが頭上から振ってきた声に、突如として湧いた衝動は、突如として消えた。
ただ、泣き叫んでやりたいと心に残る。
だが開いた唇から出てきたのは、蚊のように小さな声だけだった。
「わかってるよ」
女が、少年をこの洞窟の中で護っていることを、少年は知っている。女だけではない、ニンフ達も。少年の泣き声に反応するようにニンフ達が騒音を立て騒ぎ立てるのは、少年の声を外に漏らさないためだ。
何故そんなことをされなければならないのかも、少年は知っていた。たまに洞窟の中へとやってくる“母親”が、少年にそれを何度も繰り返すから。
少年は、顔も知らぬ兄弟姉妹たちを救うために生かされ、顔も知らぬ父を討つために洞窟内で身を隠すのだと。
けれど、
「……外へ行きたいッ…」
欲求は止まらない。
外に出て、木々を吹き抜ける風を肌で感じたい。流れる水の流れを感じて、その冷たさを知って、魚を捕りたい。天に伸びる大樹を登って、木の実を採りたい。そして空を見上げたい。どんな空だっていい、輝く空を。
声を押し殺して泣く少年の肩を、女が抱く。触れる肌から、温かなぬくもりが少年に伝わって、嗚咽する声が激しくなった。
2006/11/12 脱稿