「ねえハデス、昨日は寝た?」
 黙々と手を動かし書類に印を押していくハデスを、睨み付けるように見ながら言った。
「もちろんだよ、ペルセポネ」
 ちらりとも一瞥せずに、ハデスからの応えが返ってくる。
「二時間とか、一時間ではダメなのよ」
 そんなハデスの様子にペルセポネは歯痒く、唇を噛み締め、切々に訴える。
 ハデスが書類に伸ばしていた手を止め、身体ごと振り返ってぽん、ぽんとペルセポネの頭を撫でた。優しい微笑みを浮かべて。
「だいじょうぶ」
 全く日の光を浴びたことのない白く、すらりと長い指がペルセポネの金色の髪に絡んでくる。
 普段はその大きな手、長い指に触れられるだけで、ペルセポネは満たされた。けれど今は、ひどく苛立たしい。
 払いのけるようにその手を自分の両の手で掴み押さえ込んで、キッと睨み付ける。
「大丈夫じゃ、ないでしょう」
 手をペルセポネに握りしめられたハデスは、じっと無表情にペルセポネの顔を覗く。その無表情さにも腹が立った。
「寝ないと、死んでしまうのよ」
「ペルセポネ、神は不死だから死ぬことはないよ」
「けれど、いつか倒れてしまうわ」
「倒れても次の日には起きあがれる」
 淡々と返されるハデスの言葉に、ペルセポネはぶんぶんと頭を振った。
 どうしたんだい、とハデスが訊ねてきたがペルセポネは俯き、ハデスの手をぎゅっと握りしめた。強く、強く。
 ――ちがうの、ハデス。身体は治っても、"心"はいつか壊れてしまう。
 そして貴方の"心"は今、疲れている。それは壊れる凶兆。
 日の光が届かぬ薄暗い闇の中で、昼も夜も朝も、ハデスはずっと死人たちの声に耳を傾けている。生前の罪を詫びる声、生を渇望する声、罵声。情に流されず、死人たちに公正な判断を下すハデス。冷静な顔の中で、彼は疲れている。
 神に睡眠など不要だ。だが、疲れた心を癒すのに一番適するのは睡眠である。夢も見ぬ深い眠りが。
 疲れた心は、いつか、彼を壊してしまうから。
 そんな彼は、見たくない。見ていたくない。
「お願いよ、ハデス、今日はもう寝ましょう」
 切々と訴えるペルセポネに、ハデスは困ったように押し黙った。
 そこへ扉がコンコンと軽く叩かれ、そのノック音のあとにヘカテが扉を開け入ってくる。彼女もまた感情を出さない、事務的な声音で、その聞き慣れた言葉をハデスに告げた。
「ハデス様、新しい死人が参りました。早急に法廷の場へお越し下さいますよう」
 その言葉を聞き、ハデスが返事をしながら立ち上がろうとする。ペルセポネは慌ててハデスの腕に絡みつき、押し留めようとするが、ハデスは聞かなかった。
 ペルセポネは涙目にヘカテを振り返り、叫んだ。
「ヘカテ! お願いよ、貴方からも言ってあげてちょうだい。今日はもう休んでもいいでしょう、働き過ぎだわ。また明日、やればいいじゃない」
 懇願するようなペルセポネの言葉に、ヘカテは一瞬憐れむような視線を向けたが、すぐに事務的な、淡々とした視線に戻る。
「ペルセポネ様、そういうわけにはいきません」
 ペルセポネは驚き、目を見開いてヘカテを見た。顔を歪めて、切に訴える。
「……どうして…?」
 ――どうして? ……嗚呼、こんなことを私は言ってはいけないのに。
 心に響くその乾いた声はペルセポネを強く諫めたが、それを素直に聞いて疲れているハデスを放すことなど、できはしなかった。
 ヘカテが、ペルセポネの言葉に応える。
「今日の仕事を明日にまわしてしまっては、今日は休めても明日は休めなくなってしまいます」
 そのうえ、普段の時間配分を崩して必要以上に睡眠をとったりとらなかったりすると、身体の調子を狂わせて余計に疲れを感じさせるものだ。
 けれどペルセポネは納得できないのだ。どうしても、今はハデスをゆっくり休ませてあげたい。なぜなら、ペルセポネが思い出すハデスの姿はいつも忙しく仕事をこなしている姿だけ。
 いつも、いつも思い描くのはその姿だけ。なぜ。どうして。
 ――嗚呼、それは
「ペルセポネ様、仕方ないのです。この時期は」
 とくに、餓死者が増えますから。
 ――……ああ、わたしの、せいだ。
 豊饒を司る母が泣いている。私が母の傍を離れてしまったから、母は嘆き、大地を実らせることを怠けてしまっている。
 食べるものが無くなった人間は飢え死に、ハデスの、この国へとやって来る。それでハデスはいつも以上に、この時期は忙しくなり休まず、疲れを溜めるのだ。
 大好きな母は泣き、大好きなハデスはずっと疲れを溜める。
 ――ああ、大好きな人達が苦しんでいる原因は、わたし。
 私が地上へ、母の元へ戻れば、母はまた大地を実らせ、ハデスは十分に休むことができる。
 けれど、ごめんなさい。ごめんなさい。
 それでも貴方の傍へ居たいと思ってしまう私を許してください。


 ――嗚呼、私はいつもお前を泣かせてばかりいる…。
 けれどどうか、それでも傍に居てほしいと願う私を許してほしい。

「愛しいペルセポネ、もうお休み」

 泣きじゃくるペルセポネの身体を、ハデスは優しく抱擁した。



2006/9/9 脱稿