バサバサ、と背に生えた翼を振るわせ、ふわりとオリュンポスの峰にひとりの少女が舞い降りた。
 少女は虹の化身、神々の伝令を務める女神イリスである。長いたっぷりとしたチュニックをつけ、やわらかい金髪は細いリボンで結わえてあり、背には大きな翼をつけていた。イリスはオリュンポスの峰に着くなり、背の大きな翼を小さくたたむ。それから日が暮れかかった空を見上げて待った。
 数分もせずに、翼の生えたサンダルがイリスのすぐ横で地を踏みしめる。
 こちらは少年と呼ぶにもあどけない、まだ十にも満たないのではないかと思える男の子だ。丈の短いチュニックを着込み、その上に深緑色をしたクラミスと呼ばれるマントを羽織っている。父親の毛質を受け継いだ銀糸の髪は夕日に照らされてもキラキラと光輝くだろうが、今はその頭髪を隠すように白い布が頭に巻かれていた。
 彼は神々の王ゼウスとアトラスの娘マイアの息子、ヘルメスである。
 ヘルメスは初夏の、若葉の艶やかな緑色を思い出させる瞳をくりくりさせて、イリスを見上げた。
「今日はもう終わり?」
「はい、後は奥様に先ほどのご報告を済ませれば。緊急の呼び出しがない限り今日の伝令の仕事はありません」
 イリスの返答に、ヘルメスは愉快そうに微笑った。
「ははあ。緊急の呼び出しねぇ…」
 ヘルメスはこの日、イリスから伝令神としての手解きを受けていたのである。といってもイリスの後をつけ、どんな風に伝令を果たしているのか見学をしていただけだ。生来の気質ゆえか、黙って従順に見学するということは難しかったようであるが。
 それでもこの日一日だけでわかったことがある。本来今日一日に予定されていた伝令の仕事は少なくもないが、決して多いという数でもなかった。予定通りの仕事量ならばもう少し早く帰ることができただろう。それができなかったのは他でもない、イリス曰く"緊急の呼び出し"が殺到してきたからだ。
 ヘルメスから見てソレは全く緊急には思えない伝令ばかりであったが。
 一日を頭の中で振り返っていたヘルメスの思考を遮るように、イリスが声をかけた。
「ヘルメス様、ご報告は私の方からしておきますから、宵がふけぬうちにお帰りになられた方が良いでしょう」
 イリスの気遣いを含んだ声音に、ヘルメスはきょとんとする。
「なんで?」
「……遅くなってしまっては、マイア様がご心配します」
 少し困ったように微笑むイリスを見上げて、ヘルメスは納得がいった。
 ヘルメスの母マイアは、まだ幼い息子が夜遅くまで帰ってこなければ確かに心配するだろう。だがそれは息子の身を案じているだけではない。その息子が『また』何か仕出かしていないかどうか、心配なのだ。
 今よりもっと幼い頃に一度、アポロン神の牛を盗むという悪戯をしてからというもの、母マイアは息子が遅くなって帰ってくると執拗に迫ってくる。普段は穏やかで優しい母なのだが、厳しい顔で迫ってくる母は恐ろしい。だが大抵の悪戯小僧がそうであるように、ヘルメスも悪戯をやめることはできなかった。
 しかし今日は、悪戯のために遅くなるのではない。
「大丈夫だよ。それにイリスはヘラ様の入浴の準備なんかもするんでしょう? そんな時に伝令の仕事が入ったら忙しいよ。だから、その間は僕が伝令の仕事を引き受けようかと思ってるんだけど、どう?」
「そんな…」
「粗方どうすればいいのかもわかったし。大丈夫! わからない事があったらすぐにイリスを呼ぶから」
 困ったようにオロオロとするイリスに向かって、子供らしい無邪気な笑みを浮かべる。
「それに伝令神として、僕の名前を売るの、早いに超したことないし」
 きちんと伝令としての仕事を果たせることを知らしめなければ、誰も彼もがイリスの名を呼び、ヘルメスがお呼ばれすることがなくなってしまう。それでは伝令神とはいえない。
 そのうえ今日一日イリスと共に居て、ヘルメスは彼女が噂以上に働き者であることを知った。それに性格も今まであった女神とはちがい、人を見下すような傲慢さはなく、気配りがきき丁寧で物優しい。できれば一日も早く彼女の負担を減らしてあげたいと、ヘルメスは切実に思うようになっていた。
 イリスは暫し悩んだようだが、最後にはヘルメスに頷いた。
「そうですね、確かにそうかもしれません。ですが、やはりマイア様には一言お伝えしてこなければならないでしょう。これから私が一言お伝えにお伺いに参りますから、どうかヘルメス様はお部屋で休まれていて下さい」
「えっ」
 それでは、と翼を広げはじめたイリスにヘルメスは吃驚して目を見開いた。慌ててイリスのチュニックの裾を掴み、今まさに浮かび上がろうとしていた身体を押しとどめる。
 イリスはそんなヘルメスの様子を不思議そうに、きょとんと首を傾げた。
「どうかしましたか、ヘルメス様」
「いや、どうかしましたかって……なんでイリスが行くの?」
「え?」
 心底不思議そうに首を傾げられたものだから、ヘルメスの方が戸惑う。
「え、えーとだから、イリスはこれからヘラ様の手伝いがあるんでしょう? で、僕はとくに何もなくて暇なわけ。だったら、僕が行くのが妥当じゃない? それに今回の場合、息子の僕が行くのが普通」
 第一、彼女の仕事の負担を減らすべく僕が、彼女に仕事を与えてどうするんだ。
 内心でガックリと肩を落としているヘルメスだったが、やはりイリスは簡単には頷かない。困ったように首を巡らし、ヘルメスを見下ろす。
「ですが、ヘルメス様はお疲れでしょう?」
「……イリスは疲れてないのかい」
「私は疲れていませんよ」
 間を置けずに返ってきた返事を胡散臭げに、ヘルメスはイリスを見据える。
「じゃあ僕も疲れてないよ」
「……ヘルメス様」
「なんだい?」
 心底困ったようなか細い声で名を呼ばれ、ヘルメスはにっこりと微笑みながら彼女を見上げた。
 イリスはじっとヘルメスの顔を見つめて、しかしきっちり30秒後に小さく溜息を吐き、そしてほんの少し困ったような、それでも嬉しそうに小さく微笑んだ。
「わかりました。それではヘルメス様はマイア様に遅くなることをお伝えしてから、またこちらへお越し下さい」
 ヘルメスはその言葉に、満面の笑みで頷いた。
「もちろんだよ、イリス」



2006/9/9 脱稿