「お前は猪だな」
 青い空。
 白い雲。
 とある平原の地にて、赤金色の髪を垂らした女神が呟いた。
「――んだとぅ!? もいっぺん言ってみやがぶぶっ」
 その女神の下からは、怒気を含んだくぐもった声が響く。
「そうだな、訂正しよう。猪とて学習能力はある。毎回突進してくるだけのお前と比べては猪に失礼か、なあ、猪以下」
「ばッ―てめぇ――やめ―頭―を――踏むな!!」
「ん? なにか言ったか猪以下。そんな下を向いてもごもごしゃべっていては聞き取りづらいぞ。猪とて相手の目を見て物申すというのに、この猪以下が」
「〜〜〜ッ!!」
 とある平原の地には、二人の神がいた。
 ひとりは赤金色の髪をした女神アテナ、もうひとりは燃えるように赤い髪をした神アレス。
 しかし、その平原に立っている者はひとり――アテナだけである。
 そのアテナといえば、地面に突っ伏したアレスの頭部を先程から遠慮なくグリグリと踏みつけていた。あまりの屈辱に身体中からにじみでるアレスの怒気など、アテナは気にしない。
 片手に抜いた細身の剣先をアレスの首筋にやり、小さな切り傷をつける。剣先ににじむように付いた血を払い、鞘に収めてからアテナはくつりと喉を鳴らした。
「お前の首は取った、これでまた私の勝ちだな。まあ、猪以下に何度勝とうと自慢にはならんが」
 言いながら、アテナはアレスの頭部に置いた足を下ろした。
 頭部に置かれていた足がどくなりアレスはすぐに起きあがり、喉を唸らせアテナを睨み付ける。その目はまさしく怒りの炎のように燃え、ギラギラと輝く目は常人ならば射殺せる眼差しだ。
 しかし、生憎とアレスの目の前にいる者は常人ではない。
 怒りや憎悪、殺気を隠そうともしないアレスの前で悠々と微笑を浮かべ、
「それにしても顔が土に塗れて、まるで腕白坊主だな。図体がもう少し小さければ顔を拭ってやってもよかったが…残念。少々でかすぎてむさ苦しい。顔を拭ってやる気にはなれんな」
 なんて事を平然と言ってのけた。
「けっ、言ってやがれクソが」
 アレスは乱暴に顔を拭い、口の中に入った砂利を唾とともに吐き出した。
 それから少し離れた場所に落ちた自分の剣を拾い上げ、鞘に収める。カチ、と確かに剣が鞘に収まる音がしたのと、アレスが剣の柄から手を離したのは同時であった。
 アテナは軽く胸の前で腕を組んで、アレスを見ている。その尊大とも見える態度がアレスには気に食わなかった。
 歯をむき出しに唸る。
「そうやってでかい態度でいられるのは今の内だぜ、いずれ俺がお前の首を取る」
「今さっき負けたばかりの奴とは思えぬほど、粋の良い台詞だなアレス」
 嘲笑ったような、それでいて感心したような声音でアテナは言った。
 確かについ先程アテナにコテンパンにしてやられた者の台詞としては、あまりにも滑稽すぎる。それに『いずれ』ということは『今は』勝てないと認めているようなものではないか。
 アテナがそれを指摘すると、アレスは途端に顔を真っ赤にした。どうやら気づいていなかったらしい。
「う、うるせぇ! んなわけねえだろこのクソ女ッ、今日は朝から体調が悪かったんだよ! 俺の体調が万全だったらテメエなんかに負けるわけねー!」
「ほう。しかし、先週も私に負けたではないか」
「先週は下痢気味だったんだよ!」
「先々週も負けていたと記憶するが…」
「頭痛がしてたんだ!」
 その後も「突き指」「筋肉痛」「腹が痛かった」等の情けないとも言えるアレスの言い訳が続いた。
 アテナはアレスとの会話の最中に、呆れたように小さく溜息を吐いた。だがそれを目敏く見つけたアレスがさらに食って掛かる。
「嘘じゃねえ! 本当に目の前がくらくらしてて剣を持つ手にも力が入らねぇしで、とにかく戦いどころじゃなかったんだよ!」
「うむ、とりあえず、お前のここ二ヶ月程の敗戦の理由はわかったから落ち着け」
 しつこく食い下がるアレスをアテナは適当に相槌を打った。無論、アレスの言葉を信じたわけではない。しかし敢えて、ここはその話を信じたことにした。
 そしてそのアテナの言葉を信じたらしいアレスが、傲慢に腕を組み、何度も深く首を振る。
「わかればいいんだ、わかれば。俺は、お前に負けたわけじゃないぞ。ちょっと体調を崩していただけだ」
「それはわかった。だが…」
「だが、なんだ! まだ難癖をつける気か!」
 アレスがまたギラリと目を光らせて、アテナを睨み付けた。
 しかしアテナはそんな事は気にせずサラリと言う。
「ちがう。お前の健康管理は子供以下だな、という事実を思っただけだ」
 その瞬間、アレスの口が勢いよく開かれた。だが反論しようにも、反論のしようがない。
 アレスは暫し口を開閉させていたが、苦虫を噛み潰した時のように唇を噛み締め、口を閉じた。アレスは自ら墓穴を掘ったようなものだ。
 実力負けを素直に認めるのは癪であるが、健康管理が子供以下と見下されるのも癪である。
「では、私は帰るとしよう。今度喧嘩を仕掛ける時は十分体調に気をつけておくのだな」
 アテナはアレスに背を向け、ひらひらと手を振って帰って行った。
 しっかりとせせら笑いながら。


「くそっ、あの女、ぜってぇ殺してやる!!」
 アレスは腕の血管を浮き上がらせ、拳を振り上げながら吼えた。
 アテナは帰り、またアレスも自分の館へ帰ってきていた。
 館には美の女神アプロディテとその息子エロスが、当たり前のように主人の居ない館に居付いていたがアレスはそれを咎めたりはしない。ヘパイストスがアレスとアプロディテの情事を神々の笑い種にしてからというもの、彼らはもうその関係を隠すようなことはしなくなった。もちろん、その関係を絶つなんて事は有り得ない。その真逆で、あからさまになった。
 アプロディテは帰ってきた愛人の不機嫌な様を見て、すぐにそれに至るまでの事を悟った。エロスなどは、アプロディテがその腕を取って捕まえていなければすぐにでも逃げ出したことだろう。アレスはアプロディテに暴力は振るわないが、エロスには八つ当たりすることがある。
「くそ、くそ! あの女、俺のことを子供以下だの猪以下だのいいやがって…!」
 アレスの怒りの炎は最高潮に燃え上がったのだが、アレスがアテナを恨むのは御門違いというもの。
 エロスはアプロディテの背に隠れながら、延々とアテナに対して罵りの言葉を吐き捨てるアレスを辟易しながら見守った。
 アプロディテといえば一応アレスに相槌をあわせているが、その話は右耳から左耳へと通り抜けて、脳に押し留めていないのは確かである。聞き手に必要なのは、如何に上手く聞き流すか否かだ。
 脳に残す情報はひとつでいい。アレスが『また』アテナに負けたという事だけだ。
 それで一応は会話を成り立たせることはできる。
「俺は、子供でも猪以下でもねー!」
「もちろんよ。猪はともかく、そんな図体が大きくて年中サカっているような子供は子供なんて認めないわ。第一子供以下ってことは赤ん坊でしょう? アテナも何を言っているのかしら。赤ん坊はこんなんじゃなくて、こう円らで愛らしくってきゅ〜っと抱きしめたくなるものなのに。ねえ、アレス?」
 ――いやいや『ねえ、アレス?』じゃないからオカーサーン!!
 いきなり饒舌になった義母に、エロスは顔色を青くして叫んだ。心の中で。
 義母に母性本能と呼べるまともな神経があったことに驚きながらも、愛人とはいえ仮にも自分に好意を持ってくれている相手に『図体が大きくて年中サカってる』だの『こんなん』とか言ってしまうのはどうだろうか。しかも相手は短気で口よりも手と足の方が早くっておつむが人三倍悪いアレスに!
 義母もついに殴られるかもしれない。
 エロスは顔を青ざめながら、しかしあくまで庇おうとはせずアプロディテの背に隠れながらそう思った。
 しかし、エロスの狼狽などそっちのけで、
「だろう! アプロディテ!」
 と。当の本人はアプロディテの呼びかけに瞳を輝かせて肯定した。
「俺は子供でも子供以下でもねぇよな!」
「そうよ、当たり前じゃない。アテナは本当に、何を言ってるのかしらね」
 アプロディテはさも可笑しそうに、ふふふっと微笑を浮かべアレスの言葉を肯定する。その背ではつい先程まで母を心配していた息子が脱力してそこに居た。
 ――馬鹿だ…。
 アレスは人、いや神をも凌駕する馬鹿だった。
 確かにアプロディテは『アレスみたいに図体が大きくて年中サカっているような』とは言っていない。断じて言ってはいない。が、普通は「あれ?もしかして俺のこと?」ぐらいは察するものではないだろうか。言動を全く深読みできないアレスは、一体誰にどう育てられてきたのだろう。
 それとも全てを察しながら、その反応があれなんだろうか。だとしたら大物だ。神や人は事実とはいえ、それを他人の口から語られることを嫌がるものなのだから。
 エロスが遠い目をし始めても関係なく神と女神の会話は続いた。
「だからアテナの言うことなんて真に受けちゃダメよ。貴方は正々堂々と、真っ正面から戦うの。そっちのほうが、素敵だわ」
「もちろんだ! あの女みてぇに足を引っかけたりなんかの小細工を使った、人には言えないような卑怯な戦いは絶対しないぜ。正面からぶつかって叩っ斬ってやる!」
「その意気よアレス!」
 立ち上がって握り拳をつくるアレスに、扇動するアプロディテ。
「よし、そうと決まれば……おい、へらへら男! 出てこいッ」
 立ち上がったアレスが空を見上げて、"へらへら男"を呼んだ。エロスも倣って空を見上げる。
 数分もせずアレス命名"へらへら男"は、翼の生えたサンダルでエロス達の前に降りてきた。
 流石のアレスもそのとんでもない速さには不思議に思ったらしい。眉に皺を寄せて、訝しむようにジロジロと"へらへら男"を見据えた。
「お前、前から思っていたが、俺の後をくっついてきてるんじゃないだろうな?」
「十分ありえるわよアレス、この神の趣味は覗きだものね。ねえ、ヘルメス」
「あはは。いやだなぁ、人聞きの悪いことを仰らないでください。アプロディテ」
 いつも愉快そうな微笑み、見る人が違えば人を食った笑みともとれる微笑みを浮かべている神ヘルメスはさらりと言葉を続ける。
「僕が此処にいるのは仕事。アレスはアテナに負けた日は必ず僕を呼びますからね。僕がアレスを付けていたのは時間を有効に使う為と、待ち時間を少なくしてあげるアレスへの親切だよ」
 にっこりと微笑みながらヘルメスは言った。
 つまりはやっぱり覗き見をしていたんだろう、とヘルメスからあらゆる分野を学んできたエロスは察する。そしてやっぱり、面白がっていたのだ。自分の狼狽ぶりとか脱力した時とかアレスの馬鹿さ加減とか。
 というより、いくら空を飛べるからとはいえ仮にも軍神であるアレスに全く気づかれる事なく尾行を果たすとは。我が師ながら恐ろしい。
「それで? 御用件の方を伺わせてもらっても宜しいでしょうか」
 もしこの場にアポロン神やアテナ神が居れば、分かっているくせして白々しい奴め、と悪態を吐いたかもしれないが生憎と両者ともこの場にはいない。
「ああ、そうだ。いいか、お前は今からアテナの元へ言って、来週の今日にいつもと同じ場所で決闘だと伝えろ。いいな!」
 愚鈍単細胞であるアレスはそんなことは露にも気に掛けずヘルメスに伝言を伝えた。時間を告げていないが、まあ毎週同じ曜日に同じ場所、同じ時間に決闘を挑まれれば今回時間が抜けていても差し掛かりはないだろう。
 ヘルメスはやはり愉快そうな顔のまま言った。
「承りました。確かにそう伝えましょう」
 そして言うが早いか飛び上がり、空へと消えていった。

 その後アプロディテとエロスを背に乗せたアレスが腕立て伏せをしている姿が見えたとか。



2006/7/21 脱稿