涼しいとは言い難い、生暖かい風が髪と頬を撫でた。
常闇の中で目に見えない光が熱を持ち、肌を焼くのを感じる。
(……暑いな…)
プルトスは頭上の激しい光を遮るかのように、手をあげる。
より手の甲がじりじりと焼けていくのを感じながら、手に沿って頭上を仰いだ。
見えるのは肌を焼く熱の元兇ではなく、いつもと変わらない暗闇。それでも瞼を焼くように強く降り注ぐ熱は感じて、すぐに顔を伏せた。
汗が頬を伝い、手で拭う。
暑い。
この焼けるような暑さには覚えがあった。まだこの眼が光を捕らえていた頃の記憶を探る。
高い空は一段と高く遠くに浮かび、その空に白い雲は流れ、褐色の大地は青々と茂る。鳥が青い空を舞い、虫が音を奏で、動物が群れをなして狩りに出、神々の宴に並ぶ色とりどりの果物。
――夏。夏が、来ていたのだ。
杖を前に出して、見ることのできない道を進んでいくと、水の流れを耳にした。途端、喉が鳴る。熱に水分を蒸発させられていた身体は、水の音を聞くと、途端に乾きを訴えてきた。
杖で道を確かめながら進むと、目の前に水場の澄んだ空気が鼻をくすぐる。
ザ、ザーと流れる力強い水音が泉や沼でないことをプルトスに教えてくれた。またピチャ、ピチャと跳ねる水音に魚の存在が知れる。
プルトスは屈み、杖を横に置いて、ゆっくりと手を伸ばす。
指先にひやりと心地よい感触が広がる。それはプルトスの指など気にしていないように、流れていった。
手に水の流れを見つけたプルトスは、両手を水に浸し、その手に水をすくった。手から水が零れ落ちながらも、それは乾いた唇を濡らし喉を潤した。
一杯、二杯、三杯。手に乗った水は美味しく、満足するまでには飲み干したプルトスは、今度は顔全体に水を振りかける。
水が跳ね、二の腕と顔と髪が濡れた。プルトスは濡れた水滴を飛ばすように、頭を左右に振り、服の袖で顔を拭う。
鳥が頭上で鳴いた。
つられるように顔を上げる。
相変わらず一寸の光も見ることはできないが、注がれる日差し、風と共に舞う木々の葉音、穏やかに流れつづける水音。水と、大地と、空が絡み合う此処の空気は、とても気持ちがいいものだった。
目に見えなくとも、今日はとても良い日であることがわかる。
プルトスは横に置いた杖を掴み、立ち上がった。そこで、鳥が翼を羽ばたかせる音を聞き頭上を仰ぐ。
鳥の羽ばたきによって生じた風がプルトスの髪をくしゃくしゃに撫でつけ、羽音が目前で止みプルトスはそちらの方へ顔を向けた。
そして杖を持っていない方の手が優しく取られる。
「プルトス様」
やわらかい、女性の声がプルトスの名を呼んだ。
「イリスかい?」
「はい、イリス奴にございます」
プルトスの問いに"鳥"はすぐに応えた。
優しく荒げられることのない声音は心地よく、また包み込む手は女性らしい柔らかさに温かい体温。その姿さえ知りはしなかったが、それ以外はよく知っている者だけにプルトスは柔和な笑みを浮かべた。
「プルトス様、デメテル様とペルセポネ様の元へご案内いたします」
「うん、ありがとう」
「その前に御髪を乾かしてしまいましょう」
くすりと小さな笑いを含んだ声音に、プルトスはさっと頬を赤らめた。
「そんなに濡れているかい?」
「はい、とても」
クスクスと小さな笑い声を立て、イリスは肯定する。
プルトスはイリスの手から手を離して、自分の髪を掻き回した。その際に水滴が掻き回される髪と同じく飛ぶ。
「…確かに、濡れているね」
濡れた手を衣服で拭きながら、少々苦い思いでプルトスは呟いた。
しかし手が吹き終わり顔を上げた時には、開き直ったかのように朗らかに笑う。
「でも歩いていればすぐ乾くよ、きっと。今日は良い天気だもの」
「はい、そうですね。今日は本当に良い日です」
イリスはしつこく勧めることはせず、あっさりと下がりプルトスの言葉を肯定した。
空気の音で、イリスが空を仰いでいることに気づく。プルトスの目には見えない、高く青い空を。
「プルトス様、御手を」
言われるがままにプルトスは杖を持っていない手を前に差し出し、イリスがその手を優しく取った。
一歩一歩ゆっくりとした歩調に、プルトスもついて行く。
濡れた髪と肌の間を行き交う風は気持ちよく、だが乾いた皮膚を焼く日照りに汗も出ない、夏の暑い日。
富の神と虹の女神が、豊饒の女神と冥界の女王の元へ辿り着くのは、もう少し後の話となる……。
2006/7/? 脱稿