「アラクネが織った布って、本当に綺麗ね」
 うっとりしたように少女はその布を見据えて、呟いた。
 アラクネは店に並べる布を手に持ったまま少女を振り返り、首を傾げる。
「そうかしら?」
「そうよ! 他の人たちが織ったものとは全然ちがうわ。アラクネのは、すごく繊細よね。色も鮮やかだし、本当に綺麗だもの」
 熱心に熱く語りかけてくる少女に、アラクネは声を立てて笑った。
「ふふ。おだてても何も出ないわよ?」
「やだ、あたし、そういう気持ちで言ったわけじゃないわ。本当にそう思うのよ」
 感慨にふける気持ちを簡単にあしらわれ、少女は気分を害したように頬を膨らました。口を尖らし頬をぷくっと膨らます少女の姿に、アラクネはまた口端を綻ばす。そして柔らかい少女の髪を梳かすかのように、愛おしげに少女の頭を撫でた。
「わたしはね、機織りが大好きなの。昼も夜も、ずっとやっていたいくらい。だから、素直にあなたの言葉は嬉しいわ。ありがとう」


 太陽の神ヘリオスが輝く馬の引く炎の日輪の馬車で、西の空に駆け始めた頃。その妹である月の女神が、兄の後を追うように月の馬車で東の空を登り始めた頃。神の住まうオリュンポス山にも青い天空を遮り、青と赤のかすかな光が空一面を色とりどりはじめていた。
 そして炎のように燃える赤ではないが、その天空によく映える赤金色の髪を三つ編みに背に垂らした女神が、オリュンポス山の神の社から少し離れ、天空に染められし樹下の元にいた。
 しかし幻想的なその風景とは対蹠的に、憂いを帯びたスミレ色の双眼は夏の空を覆う雲のように深く、晴れない。
 その女神の前にひとりの神が天空より降りてきた。
 翼の生えたサンダルがふわりと地を踏みしめる。
「ご機嫌麗しゅう、アテナ」
 黄昏どきにでもよく映える銀色に輝く髪を持ち、愉快そうな微笑みを浮かべたこの神は、ヘルメスという。
 アテナはそのヘルメスの顔を睨み付けた。
「私が今ご機嫌麗しく、貴方には見えるの? ヘルメス」
「見えませんね」
 さらりと返された返事に、アテナは小さく溜息を吐く。
 ヘルメスは一層愉快そうな顔になって、言った。
「リュディアの娘と機織りの技くらべをなさったそうで」
「……相変わらず耳聡いことね、お前は」
「ルーマーが意気込んで広めておられるようですからねぇ、明日にでもなれば他の神々にも知れることとなるんじゃないですか」
 アテナは噂好きの彼女を思い出して辟易する。彼女は足が速く、悪口が達者で、他人のうわさをあれやこれやと自分好みに解釈させ、耳をかそうとする人々にその噂を言いふらして歩くのが大好きという人物である。うわさの真実が本当のところどうかなど、彼女には関係ないのだ。
「それで、お前が聞いた噂というものは?」
「娘が織った布の見事な出来栄えに怒り狂ったアテナ様、手にした杼で娘の布を引き裂き、娘の頭をも杼で打ち叩く。それらの侮辱に耐えられなかった娘は首をくくるが、アテナ様はそれを許さず娘をクモに変えてしまった。と、これが今のところ一番ヒドイうわさでしょうか」
「…………」
「娘が技比べに負け、屈辱に自殺してしまい、それを憐れに思ったアテナ様が娘をクモに変えてくださった。という噂もありましたよ」
 朗らかに笑いながらヘルメスはそう告げた。
「……実に両極端なうわさね」
 技くらべの勝敗までもがちがう。
 ここまで両極端であると、うわさに対して怒ったり傷ついたりするよりは呆れや関心のほうが上回る。
「しかも憐れに思っておいて若い娘をクモに変えるなどと、嫌みにしか聞こえないな。まるで私のセンスがないみたいじゃないか」
「若い娘って、まるで年月を感じるよう―――とと、では噂の真相は後者ではないということかな?」
 ヘルメスは思わず漏れた本音を、凍てつく視線に遮られて、慌てて話を戻した。
 アテナたち神は若く美しい姿をしてはいるが、どの人間よりも歳をとっている。ヘルメスなどは気にもしないが、女というのはどの種族にしても、そういった関連を気にしているようだ。若く、誰よりも美しくキレイでありたいと思うのは、女たちの永遠の欲望であろう。
 アテナはヘルメスの言葉に、憂いげに俯いた。
「だからといって前者というわけでもないわ」
「でしょうねぇ」
 ヘルメスは緊張感のない声音で、アテナに相づちを打った。
 この思慮深い女神が、技くらべで負けたからといって相手の作品を引き裂き、その相手の頭を殴るなど想像できない。いや、柔軟な頭脳の持ち主であるヘルメスには想像できるが、だがそれはどこか現実味がない。その噂が本当であったのなら、是非ともその場に居合わせたかった。


 アラクネは小アジアの西海岸、リュディア地方のコロポンという町に父と共に住んでいた。
 父イドモンは染色の名人であり、アラクネにとっても父は偉大であった。だから幼い頃から続いた父の厳しい指導にも耐えていられたのである。そして一端の年齢になった頃にはアラクネの織物は誰にも真似できないくらいに鮮やかな色を生み出していた。それはアラクネが採ってきたエビや植物などを工夫して調合し、糸を染め上げているからである。
「流石、イドモンさんの娘ね」
 それらの褒め言葉は、アラクネにとって至上の喜びであった。
 父は偉大である。アラクネから見ても父の染め物は他のものとはちがい、ひどく目を惹き、荒々しい気分だって和ませてくれるのだ。そんな父の娘としての腕を褒められるのは、なによりも嬉しい。
 アラクネにとって、父は何よりも偉大な存在であった。しかしその父は呆気なくアラクネの元から離れ、この地上から去っていった。
 仲の良かった親子であったのは周知の事であり、周りはアラクネを気遣ってかイドモンの名を口に出さなくなる。その変わりに別の名でアラクネを褒めはじめた。
「アラクネの織物は、まるでアテナ様が織った布のように綺麗ね」
「まあ、素晴らしいわ。ひょっとしてアラクネは、機織りの秘訣をアテナ様から直々に伝授されたのではなくて?」
「アテナ様も、この美しい織物を御覧になったら喜ばれるでしょうね」
 彼らは好意で褒めてくれているのだろう。だがアラクネには苦痛以外のなにものでもなかった。
「わたしの機織りは、アテナ様から教わったものなんかじゃない。わたしの機織りは、お父さんから教わったものよ。アテナ様なんか、一度だってお目にかかったことないわ。それなのにどうして機織りなど教えてもらえるというの?」
 工芸の女神の名で賞賛を受けるということは、ほかのどの賛美よりも誉れ高いことであったが、アラクネには侮辱されているも同然であった。何故ならアラクネにとって機織りの一番は父であり、見たこともない女神などではないからである。
「ああ、わかったわ。みんな、知っているのね。お父さんがいなくなってしまってから、私が少し手を抜いてしまっていたことを。だから、お父さんの名前で誉めてくれないんだわ」
 アラクネは自らの内で結論をだし、皆の賛美に耳を貸すことを良しとせず、昼も夜も仕事に没頭した。父の娘として誉めてもらいたいばかりに。
 仕事に没頭するアラクネの姿勢は周りからは良い評判として広まった。そしてアラクネの機織りとしての技術も、向上していく。
 だがそれと同じくアラクネの焦燥も募っていった。
「まだ、まだみんな認めてくれないのね。みんな、アテナ様、アテナ様ばっかり。いつになったら、昔のように誉めてくれるのかしら。いいえ、第一みんなどうして私がアテナ様より機織りの腕が劣っていると思っているの? アテナ様が織った織物なんて、みんな見たことないじゃない」
 憤然とアラクネは言った。
 それを聞いた機織り仲間は神をも恐れぬアラクネの言動に、身体を縮こませる。そして穏和に、アラクネの神経を逆撫でさせぬよう諫めた。だがその気遣いすら今のアラクネには十分神経を逆撫でするものであり、ムッと口を尖らす。
「なによっ、なによ! 神様だからわたしより上手だっていうの? 人間だからアテナ様より機織りの腕前が劣っているというの? そんなの、見比べてみなくちゃわからないじゃない!」
 アラクネは、ついに癇癪玉を破裂させた。
 辺りにびんびんと響くアラクネの癇声に、機織り仲間たちはびくりと身体を震わせ、身を寄せ合う。そんな彼女たちに目を向けず、アラクネは地団駄を踏み、荒々しく声を上げ激しく怒りを表した。
 だがアラクネは自分の言葉にハッと我に返った。それから勝ち誇ったように、嘲笑する。
「そうよ、そうだわ。アテナ様が本当にわたしより上手だというのなら、わたしの目の前にその腕前を見せてちょうだいよ。機織りの腕前にかけては、わたしはアテナ様と技比べしたって決してひけを取らない自信があるんだから」
 それからアラクネは、そのことを吹聴して歩くようになった。
 アラクネの自惚れた発言に鼻白む者もいれば、アラクネの腕ならば確かにアテナ様にも勝ってしまうのではないかと囁きあう者たちもいる。だが誰も彼もがアラクネに直接そのことについて話題をふることはせず、本人のいない影でひたすら噂をするだけであった。
 そして誰もアラクネの心得違いを悟らせようとせず、アラクネの身の程をわきまえない思い上がりが膨らんでいく中で、一人の老婆が初めて彼女を諫めた。
「娘さんや、そんな大層な事を吹聴するもんじゃないよ。わたしらは人間の身分をわきまえて、暮らしていくべきなんだよ。人間同士で技を競い合うのは良いことさね、だが女神さまとはならん。今すぐその不埒な大言を取り消して、アテナ様の許しを乞うよう祈りなさい。そうすればアテナ様は許してくださるじゃろう」
 老婆は、諄々と言い聞かせた。
 だがアラクネはその老婆の説得に全く耳を貸さず、あくまで突っ張る。
「おばあさんは、わたしが負けると思って心配してくれているのね。だけど、大丈夫よ。わたしの機織りとしての腕は、アテナ様にだって負けないわ」
 胸を張って、自信に溢れた笑みを浮かべるアラクネに向かって、老婆は首を振る。
「愚かな娘さんや、自分こそアテナ様の腕前をご覧になったことがないだろうに、どうして自分の方がアテナ様より達者であろうなどと思うのか」
 その言葉にアラクネはカッと頬を赤らめた。
「口五月蝿いおばあさん、あなたこそ端からわたしがアテナ様との技くらべに負けると思っているようね」
 アラクネはそこまでしゃべって、じっと老婆を見下ろす。老婆もアラクネを見据えた。
「なら、やはりアテナ様はわたしと技くらべをする必要があるわ。そうすればわたしが正しいのか、おばあさんが正しいのかハッキリするでしょう?」
 そのアラクネの言葉に、老婆は傍目にもわかるほど盛大に溜息を吐いた。
 老婆のその態度に、アラクネはついに頭に血が上る。アラクネは老婆を口汚く罵り、
「そこまで言うのなら、今すぐ、わたしと技比べをするためにアテナを連れてきなさいよ!」
 と、まで叫んだ。
 だが予想に反して老婆はたちまちのうちに姿を変え、神々しい女神の姿へと変わった。射抜くような鋭いスミレ色の瞳がアラクネを捕らえる。そしてひどく形の整った唇が動いて、鈴を転がしたような音を響かせる。
「私が、アテナです」
 アラクネは突然の女神の登場にも、意を変えることをせず、果敢に女神を見据えた。


「それで、勝敗はどうなったのですか?」
 ヘルメスは相変わらず、愉快そうな顔のままアテナに尋ねた。
 アテナはヘルメスに言葉を返すようなことはせず、ただ腕に抱いた布をヘルメスに見せる。
「……これは?」
「その娘が競技の時に織った布だ」
「ふぅん」
 ヘルメスはアテナから渡された布を見て一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに一層愉快そうな笑顔を浮かべた。
「綺麗な布だね」
「……感想はそれだけなのかしら?」
 アテナの声音は、心なし冷たい。
 アラクネが織った布には、ゼウスや他の神々たちが動物の姿に変身して、人間の女たちを誘惑する様子が鮮明に織り出されていたのだ。
 ヘルメスはアテナの皮肉に、笑顔のまま付け足す。
「少し、目に痛いかもしれませんねぇ」
 だが、言葉とは裏腹に反省をしている様子はない。
 アテナは疲れたように、溜息を吐いた。
「だけど、これでは勝負の軍配は君に上がったわけだ」
 そんなアテナの様子など気に掛けた風をみせず、ヘルメスが呟いた。アテナはその言葉に、ヘルメスの持つ布へと視線を送る。
「……そうだ。愚かな娘だよ、勝負の場に、そのような布を織るなど」
 アラクネが織った布は、確かにアテナから見ても見事な出来栄えであった。色の鮮やかさも、鮮明さも、アテナと同等といっても過言ではない。だが判決を下すのは多くの人間達であり、アラクネの神を侮辱した織物に軍配を上げるほど人間は強くはできていない。勝負はアテナの圧勝であった。
「よっぽど鬱憤が溜まってたんだね」
 ヘルメスはアテナの気など知らず、ケラケラと笑う。
「それで、貴方はこの織物に怒って、その娘をクモにしてしまったんですか?」
「それ相応の罰でしょう。このように神を愚弄して良いわけがない」
「そーですねぇ」
 にこりと笑いながら相槌を打つヘルメスを、アテナは半眼で見てから力なく首を振った。
「人間の娘がお前たち神をどのように見ているか、見せしめてやろうかと思ったが、無駄のようね」
 そう言いながらアテナはヘルメスの手から、その布を取り上げる。
 ヘルメスは素直に渡しながら、その言葉に耳を傾け、なるほどと頷いた。
「だからその布を持ち帰ってきたというわけですか」
「そうよ。とくに父上には御自分の立場をご理解していただけなければ、勿論お前もだ、ヘルメス」
 アテナの鋭いスミレ色の瞳に射抜かれ、ヘルメスは肩を大仰に竦めてみせた。
「まあ、いい。これをこれから父上に献上しに行く。少しは良い薬となるでしょう」
 アラクネの織物をきれいに畳みながら、アテナは父ゼウスが住む宮殿の方へと足を進める。
「お供しましょう」
 その後をヘルメスが軽い足取りで続いた。
 あの織物を見た時のゼウスの顔を拝むのは、実に愉快だった。



2006/4/3 脱稿